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ASD 第七号
演技における近代とリアリズム
二人の演出家の回想    ASD研究会

このページは、ASD研究会小田中章浩氏の御協力により、ASD7号の一部抜粋文を紹介をさせて頂きました。
ASD7号全文、ASDバックナンバーについてのお問合わせは、ASD研究会まで

ASDバックナンバー
No.2 モノローグ:語りと独白のはざまで
No.3 ドラマとしての復讐と仇討ち
No.4 空間移動の演劇性
No.5 演劇におけるリアリズム再考
N0.6 方法論としての演劇との出会い
No.7 演技における近代とリアリズム:二人の演出家の回想

(1〜4号定価500円 5号以降800円 No.1 「劇中劇とメタシアターの東西」は品切れです)

ASD研究会 E-mail odanaka@dac.ous.ac.jp
〒700-0005 岡山市理大町1の1 岡山理科大学工学部小田中研究室内

 

寺山修司と三島由紀夫について

小田中● ただ先にも少し触れたように、先生は後のアングラ演劇の先駆けとなるようなお仕事もされています。たとえば寺山修司との関係というのはどのようなものだったのですか。

荒川● 僕は寺山君のことは、彼が高校生時代に短歌を投稿している頃から名前を知っていました。ただそれは若い歌人として注目していたということです。彼がまだ早稲田の学生の頃、確か「早稲田詩人祭」といったものがあって、そこで面識を得ました。
 直接の縁ができたのは彼が文学座のアトリエに僕の芝居を見に来るようになってからです。寺山君は『ガラスの動物園』から始まってイヨネスコとか、『動物園物語』などを僕がやっているのをよく見に来てくれました。彼の『血は立ったまま眠っている』が劇団「四季」で上演された少し後のことなんですが、自分の書いたものをどうしても上演してくれということでした。『毛皮のマリー』なんか、「荒川哲生氏に捧ぐ」なんて雑誌の発表用のゲラに書き込んで、僕のところに届けに来たりしました。そりゃ、僕だって嬉しかったですよ、そこまで劇作家に惚れ込まれればね。
 でも『血は立ったまま眠っている』式のものは、僕にはダメだよと言いました。君の詩がもっと写実劇に生かされているようなものであれば、是非やらせてもらうと言ったものでした。その例として、テネシー・ウイリアムズやオニールのことを彼に話しました。そしたら、彼は(そういう芝居を)書くと言ったんです。それが『白夜』という戯曲です。実はこれが僕の文学座での最後の仕事なんです。これを田村秋子さんが見たんです。で、「寺山さんってちんぷんかんな芝居書く人だと聞いていたけど面白かったわよ」と言ってくださった。

小田中● 『白夜』というのは、どういう話だったんですか。

荒川● 男が蒸発してしまうというアイデアだった。一応写実でね。でも今考えると、彼は僕に付き合って相当無理して書いたんだろうと思います。ただ彼が亡くなってから分かったことだけど、寺山は『白夜』という作品を抹殺しています。あらゆる本に出していません。それでいいんだろうと思います。僕は人間的には彼はのことを大好きだったしね。
 ただ、面白いことに、これは寺山君が自分で言っていたことんですが、自分の作品の中で、日本中のいろいろな演劇グループによる上演回数がもっとも多いのが、『白夜』なんだそうです。
 当時、寺山君は、唐(十郎)君の作品まで僕のところに送りこんできました。まだ役者やってて劇作家としては無名だった唐君。彼の『竹早町にナントカ電車は止まらない』という作品を送ってきた。これはテネシー・ウィリアムズのもじりだなと思いました。『The Milk train doesn't stop here anymore』という戯曲がありますからね。で、僕はそれを読んで同じように断っている。僕にはできないからと。
 その後、寺山君は『毛皮のマリー』の他にも、『さらば映画よ』とかいくつかの本を書いてきましたが、僕は読ませてもらってすべて自分には向いていないと言いました。
 それでも彼は自分で書いたものを何とかして舞台化したいと言い続けていましたから、ある日僕は「自分で演出したら?」と言ったんです。しばらくしたら「天井桟敷」というのを作ったと言ってきました。その頃、彼が戯曲集を出して、僕に献呈してくれた。ついては図書新聞に書評を書けというので「寺山号出帆す」という気持ちで書いた記憶がある。
 彼はずいぶん誘ってくれたけど一回見ただけでね、天井桟敷には行かなかったですね。僕は特別冷たいわけじゃないけど、僕が見たって仕様がないですから。ただ、そんなわけで彼とは一時、本当によく話をしました。そして僕の演劇についての姿勢は、彼にはっきりと言ったと思っています。もちろんお互い何のこだわりもなかったので、寺山君は僕にとっては非常に懐かしい人です。
 僕は演出家として世の中に出た頃、前衛演出家のように思われていたふしがありますが、前衛的なものがやりたくてやったわけじゃない。単に自分が読んで面白いと思ったからやったまでです。

小田中● 三島由紀夫についてはどうご覧になっていましたか。

荒川● 僕は文学座での三島さんの初期の作品のほとんどにスタッフとして関わっていました。三島さん自体が、役者達よりもスターでしょう。文学座の連中も「三島先生、三島先生」ということになる。見事に仲良しクラブの一員を賑やかに演じていらした。けれど僕が見ていたのは、一種の精進ぶりでした。努力の天才というか、そんなもの、決して表にはお見せになっていなかったけれども。ソフィストケートされた行動の裏にある、決意のようなものがいつも感じられた。
 昭和三八年に僕達が文学座を出て、三島さんとはご縁がなくなりましたが、僕はその後の三島さんの行動を見ていて、あれだけのことを仰っているのだから何らかの責任というか、決着をお付けになるんだろうと思っていました。
 しかしなんと言っても、三島さんが文学座をおやめになった時、朝日(新聞)に発表なさった「公開状」は、僕が普段三島さんについて感じていたこと、そのものでした。
 芝居について、三島さんは「僕の芝居はデクラメーション(朗唱)ができなければだめなんだ」と仰る。僕はそれは違うだろうと思いますね。何故ならデクラメーションなんてものは、相当(歴史的に)時間をかけなければできるはずがない。それを三島さんは「リアリズムでは(自分の芝居は)できないんだ」と仰る。もっとも三島さんの文章をよく読むと、それは「新劇のリアリズム」ではできないということなんです。
 僕に言わせると、三島さんが亡くなった後、『近代能楽集』なんて演出家のおもちゃになっている。奇妙奇天烈な演出をするための。そうじゃない。あれは、しゃれたフランス菓子みたいなものでね。まあ、毒はいっぱい入っているけれども僕はコメディと言ってもいいと思っているんです。
 『鹿鳴館』だってね、いわゆるデクラメーションに憧れたくなるのは分かります。リアルな状況で、たとえば恋人どうしがいて夕日が沈む。そこで、三島さんのレトリックが始まるわけです。確かにそこに何らかの方法は必要です。それこそ当時の野暮ったい、民芸的リアリズムでやられたらかなわない。三島さんの「新劇的リアリズムではできない」と言うのはそういう意味です。だけれども、それは写実の演技できちっと支えるべき芝居なんであって、それを怠れば空疎なデクラメーションの芝居ができることになる。
 本当の意味での写実は、三島さんの芝居の魅力を否定するものではない。ある心理的な問題、野暮なことを言うようだけれどサブテキストの問題があるとするならば、それはまさにさっき言った呼吸の問題なんです。地に足をつけて美しく語るという、そういう方法があるはずだ。デクラメーションでなければ駄目、リアリズムでは駄目だというのでは、三島さんの芝居の本当の意味での魅力は出てこないと思うんですね。

 

 

地域演劇について

小田中● 先生は、アメリカのリージョナル・シアター(地域演劇)の活動にも早くから注目されていましたよね。 

荒川● アメリカはね、演劇を生活上必要なものにするということ、つまり地域社会と演劇活動を密着させて不可分の関係にするということを、この五十年間で意識的にやってのけた。で、僕はその過程をたまたま目にすることになった。僕が最初にアメリカに行った頃は、地方都市でのプロの演劇活動なんて、せいぜい四つか五つくらいのものでした。それから三十年か四十年くらい経って、今ではアメリカのどの都市に行ってもプロの劇団・劇場がないってことはないからね。
 では何故そうなったのか、ということですよね。僕が最初に行った年には気がつかなかったんだけれども、次の年にアメリカにおけるシェイクスピア上演の現状を調査することになって行った。そうするとシェイクスピアの上演の多くは地方都市でやっていることが分かった。そのときリージョナル・シアター(地域演劇)の存在というものを知ったんです。
 結局ブロードウェーでやるのは、イギリスからRSC(ロイヤル・シェイクスピア・カンパニー)が来る時くらいで、アメリカの商業演劇のプロデューサーがシェイクスピアをやるなんて例外中の例外。そこで地方都市のリージョナル・シアターがすごい活動しているんだということが分かって、それを可能にしたものはなんだろうとそこから調べ始めた。
 まず、人材。アメリカの大学は演劇科が多いんですよ。僕は最初に行った時に「こんなに演劇科出身が多くて、卒業してからニューヨークにしか仕事がないのにどうするんですか」と質問した位です。就職先が心配で(笑)。しかしそういう潜在的な地盤があったということ。さらに、そこに気が遠くなるほどの金が投入されて来た。たとえばフォード財団が、アメリカのリージョナル・シアターの活動に弾みをつけるためにどれだけの金を使ったか。我々から見たら天文学的数字ですよ。
 大学の演劇科の設備なんかも、最初に行った時に本当にびっくりした。たとえば装置家を育てるための大道具の製作場にしたって、東宝や松竹といった日本の商業演劇が持ってるものから見たら、比べ物にならない設備を持っていたりする。これには茫然自失。「日本はとてもだめだ」というのが実感でした。
 それだけの金が演劇活動の基盤作りに投入されるということは、何らかの社会的必要があるから投入されたんでしょう。それがああやって、リージョナル・シアターという言う形になる。明らかに彼らはヨーロッパみたいに、演劇と地域社会との関係を作りたかったわけです。ヨーロッパ人に言わせると、それはそれで大変な努力が要るんだとは言っているけれども、それでもドイツなんかを見てもいたるところに劇場がある。別に世界的に名が知れてなくたっていい。古典から現代までの演目をレパートリー・システムによって地域住民にサービスする。演劇を文化というなら、そういうことを言うんだと思います。
 ところがアメリカの場合、以前はロスの人がまともな芝居見るにはニューヨークまで大陸横断しなければならなかった。だから僕は当時、アメリカは演劇後進国だと言った。でもみんな僕の言うことが分からないと言う。それは演劇というものを、どういうものとして考えるかということです。ブロードウェーは世界の演劇の一大マーケットだといっても、それは物事の一面なんですよ。逆にそれを見るためには大陸横断しなければならないとしたら、それは完全に後進国だ。生活の中に入っている観劇というものは、せいぜいどんなに遠くったって劇場まで車で三十分くらいでないと。劇場ってそういうものでしょう。東京だって、みんな郊外へ移ってしまって満員電車で劇場まで行ったり来たりするものじゃないと思うんですよ。
 かつての日本の江戸時代までは、芝居とはそういうものだったはずなんです。そこに戻ろうよ、ということを三十年言ってきた。何の効果も無いけどね(笑)。でも演劇の問題は五十年、百年のスタンスで考えるべきことだと思うんです。だからそんなこと言ってた奴がいたよ、という位の情報は残して行かなくちゃならないんだろうと思います。

小田中● バブルの時代はチャンスだったと思うんですよ。あれだけ地方に多くの劇場ができたんですからね。だから新劇もそこで一種のリージョナル・シアター的な活動をしても一向に構わなかったと思うんです。本拠地と養成所だけ移せばいい。主役級の役者は東京に住んだままで、そこの地域のお客さんのために年に一回公演やれば済むことなんですから。言ってみれば文学座が仙台に行くとか、民芸が九州に行くとか。そういう風にすればずいぶん状況は変わったと思うんです。なぜ新劇の人達にそういう発想ができなかったか。そこに新劇の歴史性に関わる大きな問題があると思うんです。

荒川● 昔、文学座で叩き上げの人が、「今まで東京で頑張ってきたのに、今さら地方になんか戻れるか!」なんて言っていましたけどね。これは、地方という問題じゃない。演劇の本質論の一つなんです。

神山● もう一つ日本の劇団がよくなかったのは、現代演劇協会はそれで批判されたわけですが、企業からお金をもらうのにものすごく罪悪感を持っていたことです。

荒川● 財団法人にして、演劇という文化活動への寄附とか補助金の導入をいくらかでも容易にしたかったんですけどね。でも、アメリカだって大変なんですよ。日本よりもう少し理解はありますけど、劇団にとってファンドレイジング(資金調達)というのは大変な仕事なんです。ところが日本の新劇の人達はそういうことをね、独占資本のナントカだからダメだなんてことを言っていたわけでしょう。それが驚いたことに、どんどん衣替えして行く。今ではみんな平気な顔をしてメセナだ何だと言っている。平気で過去のことを忘れていく。

小田中● 最後になりましたが、その後、ここ金澤の地で地域演劇活動の実践に取り組まれるようになるまでの経緯について、簡単にお話いただけますか。

荒川● 気障なことを言うと、僕は「昴」を辞める前に、一種の遺言として二つの芝居を手がけたんです。まあ、これは「昴」の人も知らない、僕のひそやかな決意だったんですけれども。一つは翻訳物として先ほど申し上げた久米(明)さんの『セールスマンの死』(一九八五年)、それから日本のものとして、金澤の松田章一さんの『島清、世に敗れたり』(八六年)という作品です。
 この『島清、世に破れたり』という戯曲は、文化庁がやっている「創作戯曲奨励賞」の入選作品なんです。この賞はそれまでめぼしい作品が出なくて、税金の無駄遣いだと言われて担当者は頭を抱えていた。で『島清…』は廻りまわって僕が演出することになった。僕が演出するはずじゃなかったんだけど、誰も引き受け手がなくて、最後に僕のところにまわってきた。まあ、本読んだらみんなが断るのも分かると思いました。しかし、数カ所だけラヴシーンですごいな素晴らしいなと思うところがあった。
 これは島田清次郎(一八九九〜一九三○)という金澤出身の小説家の話なんです。それで金澤と縁ができた。今では島田清二郎なんて誰も知りませんがね。神田へ行ったって古本もないくらいですから。けれども彼の『地上』という小説は、大正時代に大ヒットした。それこそ一夜にして作者は有名になり、それから急速に没落していった。最後は「俺はあの島清だ」なんて言っても誰にも相手にしてもらえずに野垂れ死にです。後年、新藤兼人さんが監督して映画にもなりました。   
 僕はこの戯曲を引き受けて一年間、『島清…』を隅から隅まで読みました。そしたら手前味噌なんだけど、舞台を見た人はびっくりした。一つはね、アマチュアの劇作家にこんなことが書けるのかという驚きがあった。あれは感謝された。後に再演もされました。
 この二つの作品は、僕の考えている写実の問題をかなり意識して、洋の東西を対にして両方続けてやった。『セールスマン…』の方は、たぶん民芸が著作権持っているからだめだろうと思っていたんです。これは裏話になるけれども、その頃僕はニューヨークにいて、ジョン.ディロンに『セールスマン…』をやってほしい、ただしそんな訳でおそらくだめだろうと他の候補作も挙げて打診していた。だけどものは試しと(アーサー)ミラーの(著作権を管理している)エージェントに行ったんです。そしたらそこで民芸はいんちきやっていたことが分かってしまった。
 だからこちらには「どうぞおやんなさい」ということになった。すると、さあ民芸は慌てて「荒川がちくったらしい」と。僕が民芸をちくりにわざわざニューヨークまで行くはずないじゃないか(笑)。それで民芸はエージェントに謝ってもう一回だけ滝沢さんで『セールスマン…』をやっているんです。こちらが久米さんで「昴」でやった後に。
 裏話としてはそんなことがあったんだけど、とにかく『島清…』と『セールスマン…』という両対で、僕の考えている写実というものを示そうとした。今は自分なりの方法論がはっきりできていますが、まああの頃としてはこれくらいがせいぜいかという思いでやった。それから僕は「昴」を離れて、金澤に来たんです。

小田中● その後、金澤で実際に地域演劇活動に関わってこられたわけですね。

荒川● 金澤で僕が演技を指導してきた人の中には、古くからアマチュア演劇活動に携わってきた方もいれば、生まれて初めて芝居をやる人もいた。金澤のアマチュア劇団の歴史はそれこそ六十年以上前に遡るわけです。そういう人の中には、たとえば東京で出来上がった新劇の演技を持って帰ってきて、今までやってきた人もいる。そうすると、彼らにはすでに自分のやり方というのがある。僕のいう写実の演技からするとね、それはもう大変古臭いものなんですよ。悪いけどその殻を外してからでないと始まらない。ただ、そういう人達の中にもとりあえず「荒川の言うことをやってみよう」という人もいた。
 そういう形で約十年ここでやってきて、その一つの到達点が九七年にやった『ガラスの動物園』です。金澤で地域演劇活動をやってきて、僕の目で見るだけではなく、毎回東京から一人か二人くらい劇評家に証人として来てもらった。『ガラスの動物園』の時には野村(喬)さんと藤田(洋)さんに来てもらった。扇田(昭彦)さんもちょうど取材に来ていて、これを見てかなり評価してくださった。彼らがそういうものを見た時に言うことは、東京で見る演技と違うということです。これは、やっている方が純情(?)だからそういう風に見えるのか、それともそうではない何かがあるのか、というようなことをよく言います。
 僕がここに来て以来、もちろん全て思い通りの結果になっているわけじゃないですけど、熱心に付き合ってくれた人は非常に変化していますね。個人差はあるけどね。やっぱり教育して行くのには時間がかかる。その焦点は、まず言葉の二重性というもの、つまりサブテキストのことですが、戯曲をちゃんと読めなきゃいけないということ。それから先にも言ったように、それを身体で演奏するための呼吸の問題です。当たり前のことの教育を徹底的にやっていくと、かなり良くなってきている。

小田中● 先生がそうした地域演劇活動から学ばれたことは何だったのでしょうか。

荒川● 最初に申し上げましたように、僕は東京の下町で生まれて、親は小学校しか出ていませんから。僕が新劇を始めると、(両親は)何が息子に起きちゃったかと思って、恐慌を来すわけです。その頃僕は、こういう親父やお袋に分かるような楽しめる演劇を作ればいいんじゃないかと思った。たとえば僕が生まれたのは墨田区の向島という、当時としてもあまり品の良いところではなかったけれども、僕の少年時代にはまだあの辺りでは、「今月は何にしようか?」という会話が交わされている家庭があった。もちろんそれは今月は誰の芝居(歌舞伎)を見に行こうかということで、そういう伝統が残っていた。
 やっぱり地域演劇というのは、そこら辺のおじさんおばさんに来てもらえるようでなければだめなんですよ。つまり大人の生活者に。ここ(金澤)で、新劇系の舞台など見たこともない客を誘うという実験をやってみると、みんなびっくりしてますね。『ガラスの動物園』なんて外国の作品を、日本人がやっているものなんて見たことない。そうするとびっくりして「よかった。今度いつやるんですか」と聞いてくる。そういう良いものがあれば、彼らだって毎月芝居を見に行こうか、ということになっていく可能性だってある。
 ところが、ここ(金澤)のアマチュア劇団というのは、結局友達にチケット配って終わり。それを何十年も繰り返している。「良い舞台ができたときは無駄にしちゃだめだよ。お客が入っても入らなくても公演を繰り返すくらいのつもりでなけゃ」とよく僕は言うんだけれども。何らかの方法で、そういう決して劇場に足を運ぶことのない町人にアプローチすることに必死になるべきだと。そうすればいくらかでも観客が増えて行く。というより仲間うちだけでの演劇活動の垣根を何とかして越えようとしなければ。でもここの人達はそういうことをしない。もちろん東京の連中だって、結局そういうことはしていない。
 これは僕が福田(恆存)さんと別れて行く遠い原因にもなっていることなんだけれども、こういうことがあった。三百人劇場でね、町会の連中を集めてとにかく招待するから見に来てくれと。そういうことを僕がやり始めた。もちろん全ての作品ではなくて、「これなら」と思う舞台ができた時にやる。そして年末に町会の連中を集めてパーティーなんかをやる。福田さんは「あいつは何を始めたんだ」と思って見ていたと思います。事務局の連中も越権行為だなんて言っていた。
 でも僕は今でも思うんです。(三百人劇場のある)文京区にどれだけの人口が住んでいるか。不特定多数を対象としたポスターとチラシを配って能事了れり、というのではなくて、一軒一軒切符売って歩いたらどうなのか。ある時、それを実行したことがあるんです。その時の報告は面白かった。個別訪問すると、「何言ってんだ!」と断られた奴もいるし、「いつ来るかと思って待っていた」と言われた奴もいる。そういう作業をもっとやるべきだったんですよ。
 もちろんどんな演目でもというわけにはいかない。作る側がしっかり客観性を持ってね、この芝居はせいぜい自分の劇団のファンどまりなのか、初めての客でもいけるんじゃないかとか、そういう判断をして地域の住民に働きかけていかないと変化がないですよ。
 結局僕が四十五年間、演劇に携わってきた感想を言えば、あの頃と今と、いろんな意味で変わっていない。それは、意匠は変わったでしょう。包み紙はね。でも本質的には何にも変わってないんじゃないか。たまたまここ五年くらい、だんだんアングラがだめになって、また写実ばやりというようなことを劇評家が言いだした。
 最近ある人から聞かされたんだけれども、若い人にもそういう傾向があるそうですね。つまり、長くやっている古臭い劇団の養成所でリアリズムなるものの基礎を習ってから、自分達の劇団で当世風の芝居をやろうと。でも当人達には、自分達がやっていることについての歴史感覚がない。そういう無意識のままだと、今後また時代が変わってね、ああ、あの時は写実ばやりだったで終わる。
 だから最近の演劇のリアリズムへの傾向も、また一種の流行で終わるのかなと思ったりしますね。これは、根本的には演劇の近代化の問題なんだから、どういう立場を取ろうと、この際徹底的に考えたらどうかなと思うんですけれども。

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