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「地域演劇」ということをめぐって
    金澤「鏡花劇場」との体験から  荒川哲生

 

数年来、この金沢で「鏡花劇場」と一緒に仕事をしています。この集団は、その自己紹介に「金沢が生んだ文学者泉鏡花の演劇と、近代劇の在り方を求めて設けられた地域劇団」とありますが、これは、近代劇など疾っくに卒業してしまったといわんばかりの大人達と、そもそも、そんなものがあったのかという子供達から成り立っているような、この国の現在の演劇的環境、加えて、ポスト・モダンに対する呼び声、喧しい中で、相も変らず、近代劇をものにできなければ、ろくな現代劇は作れまいと考えている私などには、共鳴できる目標です。そして、この目標に到達するための仕事は、主として戯曲と演技にかかわる仕事ですが、一方、私としては、鏡花劇場との仕事を通じて、十数年来、その紹介にかかわって来たアメリカ諸都市における「地域演劇」の活動から学んで来たことを梃子として、この国の現在、いったい、どのような「地域演劇」の在り方が可能なのか、それを探っていきたいと思っています。

さて、そこで、今日は、「地域の演劇」ということについてお話しようというわけなのですが、たった今、私は、「地域演劇」のその在り方の可能性を探ると申しました。それは、確かにそうなのですが、その前に、どうやら、先ずは、その再発見の試みと言った方がよかった様です。と言うのは、日本にも、無論、こんな不粋な言葉で呼ばれていたわけではありませんが、「地域演劇」と呼べば呼べるものはあったからです。「地域演劇」という言葉は、英語の「リージョナル・シアター」の訳語です。そして、その「リージョナル」という形容詞が、直接には「地方」を意味するものではないように、その訳語としての「地域」という言葉も、即、「地方」を意味しているものではありません。「地域」とは、先ず、何よりも「一定の限られた土地の範囲」と言うものを表している言葉であって、例えば、「地域社会」と言えば、それは、「一定の土地の範囲の中で成立している生活共同体」を意味しています。

何故、このような分り切ったようなことを言うかと申しますと、「地域演劇」と聞けば、あヽ、「地方演劇」のことかと理解されてしまうことが少なくないからです。なるほど、東京を中心とすれば、あらゆる「地域」は、東京という「地域」を除いて、これ、すべて「地方」ということになりましょう。しかし、「地域」の第一義は、そこにはありません。「地域」と言えば、今も、私が、「東京という地域」と言ったように、ニューヨークも東京も、ミネアポリスも金沢も、すべて、それぞれに、アメリカの、日本の、あるいは米大陸の、極東の、そして、時には、世界の中の一地域ということになります。そして、「地域演劇」とは、例えば、今挙げた、ミネアポリスや金沢のように、「一定の土地の範囲の中で成立している生活共同体」に「その根をおろして、それと密接不可分の関係を保ちながら活動を行なう演劇」を指して言う言葉なのです。アメリカで、よく「リージョナル・シアター」の別名として「レジデント・シアター」と呼ぶことがありますが、この「居住している」というほどのことを意味している「レジデント」という形容詞は、「シアター」の他、種々のものにも冠されて使用されていて、「レジデント・シアター」とは、一定の地域社会にその根拠地を置いて活動している演劇活動、あるいはその活動体の意味ですが、他に、例えば、「レジデント・アクター」(その町に居住している俳優)、「レジデント・プレイライト」(その町に居住している劇作家)、あるいは、また、演劇に関してのみならず、より一般に、「レジデント・アーティスト」(その町に居住しているアーティスト)といったような使い方がされていて、これらは、すべて、その活動体や、それに属する専門家達がその地域に居住し、腰を据えて活動をしていることを、ことさらに、強調したいところから出て来ている言い方です。

話が、少々脇道に逸れることになりますが、なぜ、こうして、地域に、そこに根差した演劇活動や、そのための専門家を持っていることを強調することになったのかと言いますと、それまでに、持てなかったものを持てるようになったからで、それは喜びでもあり、時には、誇りとさえ思えるようなことでもあったからでした。ヨーロッパの諸国に比べ、一国としては、はるかに広大な面積を持つアメリカ、そして、演劇的には、そのヨーロッパ諸国に比べて、はるかに遅れをとっていたアメリカでは―――こんな風に言うと、世界に冠たるブロードウェイを持ったアメリカが、何故、と思われる方々がいらっしゃるかも知れませんが、なるほど、ブロードウェイが巨大なる演劇市場であることは確かだとしても、その事が、そのまま、アメリカの社会においては、演劇が、真に演劇として機能しているということにはなって来ていなかったからこそ、そう申したわけなので、そして、以下申し上げるのがその演劇的後進性の理由の一つだったのですが、アメリカでは、ニ十世紀に入っても、一九六〇年代に入る頃までは、地方都市で観ることの出来たプロによる演劇といえば、ニューヨーク辺りで制作され、全国を巡演する一座のものしかなかったのでした。当時、それ以外に、どうしてもプロによる舞台を観たければ、高い金をかけてニューヨークにまで足をのばすしかなかったわけで、それはそれで大きい娯しみの一つであったことは事実にしても、観劇は地方都市の住人にとって、ことさらに費用のかかる例外的な娯しみでしかなかったのです。そう言えば、近頃、この日本でも、地方都市に住む若い人達が、情報雑誌「ピア」―――今や、国民的情報誌の一つと言って良いこの雑誌も、その発刊のアイデアは、かつてニューヨークに存在していた情報誌「キユ」からとられたものでしょうが―――この雑誌の与えてくれる情報に従って、東京に行き、芝居を観て、食事をしてくるなどということも珍しいことではなくなっています。そして、勿論、それはそれで、何の異論も差し挟まれる筋合いのものでないことは当然のことですが、しかし、知っておいて良いことの一つとして、以下のような事実があったことを指摘しておきたいと思います。それは、先ほど申し上げたような意味での演劇的後進国アメリカでさえ、人々は、そのような演劇の一極集中のその当の極地への観劇行だけでは決して満足しなかったという事実、そして、自分達の住む地域共同体においても、プロの演劇活動を持ちたいと思うようになり、それを実現して行ったという事実です。

さて、「地域演劇」ということについて、まだ、充分のお話をしないうちに、話が、その細部に、亙ってしまいましたので、元に戻すことにします。冒頭で、「地域演劇」という言葉の意味について申し上げましたが、それにしても、あの様な、「地域演劇」の定義をお聞きになると、その理屈っぽさに辟易なさるむきもあるかもしれませんが、世界演劇史など繙いてみれば分かりますように、演劇とは、本来そういうもの、古来、洋の東西を問わず、そういうものだったのです。例えば、古代ギリシャの都市国家アテネの場合、あるいは、エリザベス朝時代のロンドンの場合、さらには、江戸時代日本のいわゆる三都(京都、大阪、江戸)の場合など、その好い例かと思われます。たしかに、時代や、また地域により、その様式においても、意匠においても、演劇は、それぞれに異なった特色を持っていました。が、一方、それぞれの地域共同社会という土壌の中にはったそれらの根の深さ、つまり、それらが地域社会との間に持っていた有機的関係ということにおいては共通しているのです。

勿論、演劇と地域社会の関係が、いつの時代にも、今、例に挙げた、いわばいくつかの黄金期の場合のように濃いものであったとは言えないでしょう。むしろ、それは、長期的には、衰弱の道をたどって来たかのように見えます。しかし、そうであればこそ、欧米では、その関係の再生に、外見はとにかく、結局は寄与するに至った多くの運動がありました。十九世紀から今世紀にかけての、いわゆる近代劇運動の数々も、そういうものでありましたし、近代劇から現代の劇への道程においては、それが、意識的に行なわれるようになって来たと言ってよいでしょう。ごく近い例で言えば、第二次大戦後、いちはやく試みられるようになった、ヨーロッパやアメリカの、リゾート風の地方都市における演劇の「フェスティヴァル」なども、その一つでしょうが、それは、まだ、例外的なことであったので、やがて、激しかった世界的規模の戦争による傷が、漸く癒されはじめた一九五〇年代に入ると、更に多くの地方の諸都市において、その地域社会と結びついたプロフェッショナルによる演劇活動の可能性といったものが盛んに模索されるようになり、やがて、次々に実現されることとなっていったのでした。

しかし、その間、日本の地域社会と演劇には、何が起こっていたでしょう、地域社会の衰弱という点から言えば、それは、衰弱どころか、ほとんど崩壊に近いものであったことは、しかるべき年令の人なら、よく承知していらっしゃるところかと思います。そして、こうした、いわゆる日本の近代化の課程で起きてきた、地域社会の崩壊は、当然、かつて存在していた地域社会と演劇との間にあった有機的関係をも崩壊させてしまったのでした。欧米の場合、衰弱とはいえ、とにかくその関係の一貫性だけは保たれていました。それに比べて、日本では、それか、ずたずたに断ち切られて来たのです。では、そのずたずたに断ち切られて来た、地域社会と演劇の有機的な関係とは、いったいどのようなものであったのか、ここで、江戸時代における江戸の芝居の例などを持ち出せば、その説明のためには好適なのでしょうが、このお話は、金沢の皆様にしているつもりなので、先ずは、江戸時代の金澤で、演劇の興行というものがどの様であったのかを記すことで、その事にふれていってみましよう。今、私の手もとに、八木正氏編「金澤学事始め」という本があります。その中に、金澤の昔の演劇―――正確に言えば、金沢における江戸時代の歌舞伎についての記録が掲載されています。田中嘉男氏の手になるものですが、少々長くなりますが、以下に、年表風にアレンジして、その一部を引用させていただきます。


慶長六年(一六〇一)
戦国期の芝居は河原に住む賤民や遊行の人びとに始まったとみられるが、河原にはやがて市場ができ、都市に発展した。歌舞伎もここから発生した。この年、前田利常夫人となった珠姫を慰めるため素人踊りがおこなわれた。

元和の初年(一六一五〜十八)
犀川の分流、鞍月用水岸や浅野川の河原で芝居興行が行なわれた。

寛永期(一六二四〜四三)
この時期に入っても、菩薩節・投げ節などが犀川河原で興行された。

寛永八年(一六三一)
大火が発生し、城下町の大半が焼失したことで、芝居小屋のすべては退散したが、翌九年には、早くも犀川河原で若衆歌舞伎が行なわれた。元和・寛永期(一六一五〜四三)の芝居興業は、茶屋作衛門が河原に木材を縄で組立て、わらで屋根を葺き、まわりをむしろで囲んだ芝居小屋を藩に無断で建て、役者に貸したことに始まった。しかし、最初は無視していた藩も、翌年、同様の興業が行なわれたとき、作衛門をとらえて、泉野村で火刑に処した。

寛永十四年(一六三七) 藩は、芝居を禁止した。

明歴二年(一六五六) 江戸の役者が、東本願寺で芝居を上演。

寛文四年(一六六四) 藩は、再度芝居を禁止。

延宝元年(一六七三)
五枚町の大坂屋喜衛兵は、その禁令のなかで、役者を招き、寺院で興業。 藩は大坂屋を断罪にした。

享保一七年(一七三二)
大坂屋断罪のあと、歌舞伎の上演は影を潜めていたが、代わって音曲舞踊が武士の屋敷内、あるいは寺院で行なわれていて、藩は、これに対しても禁止令を出し、処罰されるものも出たが、ひそかに、その種の興業は続けられた。

寛永四年(一七七五)
藩の許可を得た世話人が、春日神社境内、宮腰町などで、浄瑠璃芝居を興業。翌五年には、松任村、山之上村でも興業。翌六年には、卯辰八幡社でも行なわれた。

天明三年(一七八三)
金澤町奉行は、町民の民心を慮って常設の芝居小屋を建てようとしたが、藩の年寄衆の反対で成功しなかった。

天明四年(一七八四)
観音町の山上にあった愛染院が、寺運営の経費を捻出するため、藩に願い出て、芝居を興行し、大きな収益を得た。

天明五年(一七八五)
他の寺社も、愛染院の例にならい、卯辰八幡、春日神社、明神神社などで、人形浄瑠璃の興業が行なわれた。また、芝居役者も、初めて他国から来演したが、地元出身の役者も育ち、諸社の祭礼に出演するようになった。

文政元年(一八一八)
金澤奉行の山崎頼母が、下層民に職を与えるという名目で、藩主の諒解を得、犀川下流の宝久寺(現在犀川神社)川(延命院付近)に常設の芝居小屋を建てて、中村歌之助、尾上新平、坂東七蔵などを招き、興業を行なった。

文政二年(一八一九)
金澤奉行は、犀川川上新町に芝居座を設立し、宝久寺川原の芝居を廃止した。芝居座は、小屋の周りを囲い、入口には木戸を設け、木戸内には出会い女のいない茶屋を建て、武士も、無刀であれば入場できるとした。町肝煎(各町に任命された役人)五人に、芝居座係を命じ、開場前に、ローテーションで、その一人が小屋に詰め、規定や「定書」による取締りに当り、また、伝馬肝煎(藩の荷物や人を運搬する馬を取締る役人)を主附とし、小屋の補修にあたった。なお、小屋元方銀主として、片町の酒屋宗右衛門の一族、粟崎村の木屋藤右衛門の一族木屋次郎助を任命した。この他に、芝居小屋主任に片町の倉屋文右衛門、高場・浅敷の係り役人に木倉町の才田屋兵衛、牛右衛門橋の朝日屋与三衛門、大衆免町の竹橋屋与衛門、運上方・坪方等目代に油車町の紺屋三郎右衛門、小屋主附け大工棟梁に竪町の金浦屋右衛門を任命した。まさに、藩営劇場であった。この時期の役者は、京都・大坂のものが主であったといい、それには、嵐三八、坂東三津五郎・花桐岩吉・中村歌之助・中村鶴助・山下八百蔵・三桝大次郎・中山紋十郎・中村歌門。片岡仁三郎・中村のしほ、坂東小重・坂東重太郎、尾上芙雀等々の名があり、演目義経千本桜、仮名手本忠臣蔵、絵本太閤記、草鹿子娘道成寺、本朝二十四孝など数多く、内容をふくめ、そのあらゆる点で三都と変わらなかった。

文政四年(一八二一)
芝居座は、南北両座にわけられた。北の芝居座は、歌舞伎が地元に役者により、南の芝居座は、京都、大坂の役者によりそれぞれ演じられた。京都大阪の役者には、坂東三津五郎、中村歌之助、中村鶴助の他に、中村豊松、嵐三津五郎、浅屋奥蔵、市川紅友、中山文七、中村鶴之助、坂東蓑助、市川市丸、中村十蔵、市川重太郎、片岡安要らがいて、。秋葉権現廻船噺、祇園九重錦、仮名手本忠臣蔵、。金門五三桐、敵討巌流島など多数の芝居を演じた。

文政八年(一八二五)
この頃、観客が減少してきたことを理由に、春秋二回の興業となり、一回の興業の日数は、五〇日から六〇日となった。

文政十年(一八二八)
北の芝居小屋が廃止され、京、大坂の役者たちによる南の芝居だけとなり、名称も犀川川上芝居座となる。以後、およそ十年間続いた。

天保四年(一八三三)
この頃から、慢性的な凶作が続き、米商人の打ちこわし、銭屋五兵衛の家へ、米や銭を求める下層民が押しかけるなどの事件があり、藩は、歌舞伎自体がもつ持つ反封建的、反社会的体質が、城下町の町人達に与える影響を恐れはじめた。

天保九年(一八三七)
この頃になると、社会不安が、一層深刻となり、前年の飢饉を理由として、演劇活動は完全に廃止された。芝居小屋は、東本願寺末寺の掛け所として寄進され、やがて毀された。南の芝居だけになって以後、この頃までの十年間に金澤で活躍した著名な大坂役者には、嵐瑠寛、尾上多見蔵、中村時蔵、嵐三五郎、實川廷若、市川右団次、尾上松緑らがおり、江戸役者では、前記坂東三津五郎、市川九蔵、中村歌右衛門、関三十郎等がいた。
また、この年には綿津屋清右衛門が卯辰山山麓の乗龍寺境内、妙義社で芝居興業を行なうことがあり、妙義芝居といわれたが、一回の興業で禁止され、なお、卯辰八幡社境内で興行したが、それも寺社奉行に妨げられ、清右衛門は家財を売り払い流浪するというようなこともあった。

文久年間(一八六一〜六三)
この項、城下町内に、再び、多くの芝居小屋が立ち、川上新町、宝久寺川原にも小屋が建った。

慶応三年(一八六七)
宝久寺川原は埋められ西御影町となったが、ここに延命院の芝居小屋を移し、西御影町芝居といわれた。また、卯辰山にも芝居小屋が建った。

明治五年(一八七二) 前記の小屋が、東馬場の地に移され、戎座となった。

以上の資料からでも、そこからいろいろなことが読みとれますが、何といっても印象的なのは、芝居が、絶えず、それを娯しもうとする町人達と、それを取締まろうとする権力者との間にあって、ちょうど、綱引きの綱の中央の目印のように、両者から引張り合わされてきていたということです。取り締まる側は、それを禁止する。娯しむ側は、それをなんとか躱(かわ)そうとする。しかし、実は、取り締まる側も、芝居というものが持つ魅力―――時には、秩序にとって危険な毒をたっぷり含んでいればこそのその魅力を充分承知していたので、彼等は、それを弾圧、禁止するばかりではなく、民衆を懐柔しようとして、時には、仕方なく取締を緩め、むしろ積極的手段として、あたかも町人たちに媚びているのではないかと思うほどの援助の手をのばす。つまり、自からの制禦の下においておける限りにおいて、その手助けさえする。まあ、このような禁止と認可ないしは援助の繰り返しというものが、一つのパターンのように、見て取れます。
今から、四十年ほど前に出版された「歌舞伎手帖」、という啓蒙書の「歌舞伎とは何か」という文章の中で、戸板康二氏はこう述べています「徳川時代の歌舞伎は、時の政府から絶えず干渉をうけたが、決して亡びなかった。天保の改革のときも、沸騰する世論に対抗しかねて、歌舞伎は劇場の僻地移転という条件で温存された。歌舞伎は、江戸の市民にとっては、空気や日光のようなものだったと思う」、と。

最盛期の歌舞伎は、江戸の町人にとって、いわば文化、風俗に関する情報発信の中心だったようです。その意味でも、それは、空気や水のように必需品でしたが、さらに、これを、本質的に言えば、日常生活ではなかなか見ることの出来ない異常な情熱や意志、つまり、危険で、「けしからぬ」ものを備えた人物達を舞台に登場させることで、人間の中に潜む魔性といったものの解らむ劇の上演は―――「ちょうど祭札が古代の社会生活の頂点をなしながら、少なくとも道徳とは相容れぬ人間性の爆発」(中村光男)であった様に、それが属する地域共同体の秩序を、季節のめぐりに沿って、甦らせるためにも必要なものだったのでした。演劇の発生に、古い時代の呪術的行為や、祭式を見るのは、今日、演劇史の常織といって良いでしようが、古代にあった、「地域社会」すなわち、その「地域住民」と、そういった行事との間にあった強固な結びつきは、やがて、有史時代に登場する演劇とそれを支える地域社会との間の密接不可分な関係というものの基盤にまで連なっているのです。

そして、それは、また、先ほどふれた、アテネやロンドンや江戸における演劇の隆盛時代の根底をも支えていたものだったわけですが、我が国では、そのような関係が、いわゆる近代化と共に、崩壊に近い状態にまで追い込まれて行ったのでした。言うまでもなく、その崩壊は、明治期に始まり、急激に流れこんできた欧米の文物によって、日本の伝統的な文化や風俗が激しく揺さぶられた結果です。何処よりも、それは、まず、大都会において著しかったわけですが、追い討ちをかけるように襲ってきた震災や、第二次大戦中の空襲による被災、その戦後の混乱、そして再び始まった欧米の文物の本格的流入などが、江戸時代までに形成されて来た風俗・習慣―――生活全般にわたる様式に、ほとんど死滅に近い打撃を与えてきたのです。だからといって、それに代わる新たな確固たる共同体が形成されるほどの時間があったわけでもなく、ましてや、新しい様式の生まれるいとまもなく、やがて、止むことを知らぬ人口の大都会への集中は、数多くの農村においても、その過疎化を推進し、それらの村落共同社会を破壊していってしまったのでした。

村芝居という、今はもう、死語に等しい言葉があります。この言葉には、単に、村で行なわれる芝居というだけの意味でなく、質的に三都のそれとは比べものにならぬ田舎芝居というふうな、「いなかしばいの五郎」ではありませんが、ただ力むばかりで芸がないことについての批判、あるいは軽蔑がこめられてもいたのです。しかし、どうでしょう、今日、村芝居を懐かしく思い出すほどの人々の脳裏に浮かんで来るのは、そういった批判や軽蔑ではなく、かつて、この国のいたるところにあった村落共同社会が、その年中行事として行なっていた鎮守祭や豊年祭、そして、そこで、芝居の上演のために整えられたしつらえの中で、演ずる方も観る方も、共に一つに融け合いながら打ち興じていた村人達の姿ではないでしょうか。なるほど、それは、洗練された人々の目から見れば、技術的にはなんとも言いようのないほど素朴なものであり、時に、ただただ野鄙にすぎるだけのものであったかも知れませんが、しかし、その根底にあったのは、昔のアテネ、ロンドン、三都などの劇場で見られたものと通ずるもので、それらには、すべて、ただ単に、「かかっている」から観に行くといった関係以上の何ものかがあったに違いないのです。

戦後、昭和二十年代の中頃、新劇を学び始めたばかりの私は、たびたび、旅公演について行くことがあり、僻地の小さな町で、昔からあった古い芝居小屋で仕事をしたことがよくありました。中には、崩壊寸前、風でも吹けば、小屋全体がきしんでせりふが聞きとれぬというようなものまでもあって、さすがの、いわゆる旅廻りの一座の訪いも絶えて久しいのではといった風情、そんな時、私は、何というか、胸詰る思いに襲われたものでした。人というものは、たとえ、どんな僻地ででも、芝居というものを欲しつづけてきたのだなと思い、その、廃墟に似た芝居小屋の姿の中に、かつて、そこで演じ、それを観て打ち興じた人達の夢の跡を見たのでした。それは、どこか、チェーホフの「白鳥の歌」の読後感にも似たものでした。、その頃、そういった土地の年寄から、彼岸に旅立つ前にもう一度芝居を観たいとロにしつつ死んで行った老妻の話を聞いたことがありますが、その時、私は、その、いささか芝居がかっているエピソードの真偽に疑いを持つよりは、芝居というものと人々との関係がそれほどまでに密なものだった時代と場所というものがあったのだということを信じたのでした。言いかえれば、これも、また、ただ「かかっている」から観に行くといった以上の何かが、そこにあったからに違いなく、この場合も、また、そこで行なわれていた芝居が、その地域社会の住人達にとって、生活していく上での必需品だったということだったのではないでしょうか。そう言えば、私の少年時代には、私の周辺にも、かろうじて、そんな風なことが残っておりました。私は、昭和一桁東京の下町生まれですが、昭和十年代の半ばすぎ位までは、「来月は、何にする?」と、一家の行事としての観劇の予定についての会話がかわされている家庭がまだわずかながらあったのです。勿論、その観劇の対象は、歌舞伎、せいぜい新派、新国劇くらいまででしたが、そこには、「観ないことには始まらない」芝居といのを持っていた町人生活というものが存在していた江戸時代の、かすかながら名残があったのでした。

単に「かかっている」から観に行くのではない演劇とか、「観ないことには始まらない」演劇とか申して来ましたが、そのような言い方で、私が説明しようとしているのは、結局、こういう事です。一つの地域共同体をささえる秩序とか様式―――それは風俗・習慣と言いかえてもよいものですが―――それらは、人間が、生活といえるほどの生活をしてゆくためには、不可欠のもので、しかし、一方、時に、それらは、人間の生き方を規制するものであります。私達人間の中には、こうした秩序や様式によって、できるだけ安穏に暮らして行きたいという願いが存在しておりますが、同時に、また、自分の生き方を規制するものでもある、そうした秩序や様式を徹底的に破壊してしまいたいという、矛盾した欲望、情熱とも言うべきものも存在しているのです。そして、そのような欲望、情熱が、共同体にとって、危険なものであり、「けしからぬもの」であることは申し上げる迄もありません。事実、私達が、実生活において、そのような危険な欲望、情熱にとり憑かれた人々を知る機会は決して少なくありませんし、さらに、そういう人々が自らの欲望や情熱を、行くところまで行かせ、事件を起こすまでに至るような場合に遭遇することも、また、珍しいことではありません。しかし、我々の大多数は、自らのうちにその萌芽を見たとき、それが生長を自ら制禦することで、大事に至らぬよう心がけます。ところが、この事は、見方を変えれば、我々は、実人生では、例外的な場合を除いて、自分の生きたいように生きようとする情熱を不完全燃焼に終らせるより仕方ない存在なのだということを示しているものだとも言えるわけです。近松の心中ものの主人公たちのことを考えてみれば、この辺りの事情は、よくお分りいただけるかも知れません。時に、私達は、不倫と言われようが何と言われようが、自分の恋愛を成就するために、行くところまで行こうとし、その結果、心中といったことにも至る。しかし、心中事件は、地域共同体にとっては危険なことです。実人生では、今も申したように、多くの場合、我々は、そこまで往く前に踏み止まろうとする。つまり、それが情熱の不完全燃焼ですが、芝居では、そういう主人公達を情熱の往きつく果てまで、つまり、死に至るまで生きさせる事が出来るというわけです。

人々は、無意識のうちに、劇場に、それが喜劇であれ、悲劇であれ、往くところまで往くような人物たちの運命を見るために出掛けるのです。そういう大時代な、言いかえればダイナミックな登場人物を生めなくなった現代では、喜劇でも悲劇でもない、その意味で、中途半端な劇が多いわけですが、そのような劇でさえ、それが、劇といえるほどのものであれば、そこに、半端の徹底というものはあるのであって、人々は、それを観に出掛けるのです。このようなことは、今日の演劇がどうであれ、今、なお、ある程度まで言えることと思いますが、昔は、それが、単に、個人のレベルにとどまらず、地域共同体の折々の再生ということにつながっていたのでした。三島由紀夫氏が、昭和二十六年に出版された演劇講座の中の「贅沢問答」という文章の中で、こう書いています。……「年中行事、しきたり、礼儀作法、言葉遣い、地名のもつ独特なニュアンス、感情生活の一定不変の因果律、一定の社会的反応(以上全て、筆者が先に述べた秩序とか様式の生み出したものですが)……そういうもののなかから、突如として異常な情熱が、異常な意志が立ち上がる。生活はその様式の触手でこれを包み隠そうとする。」―――そして、続いて、氏はこう書いています。「情熱は様式にさからって、情熱と様式の間に生ずる緊張が、様式をよみがえらせ、これを高める」、と。この「様式をよみがえらせる」という部分が、いわば、私の言う、共同体の再生ということと照応しています。
地域共同体における祭りの持つ「はれ」の行事としての役割が、普段の日常生活の中では、許されないような、逸脱、いわば、馬鹿さわぎ(これも、一種の演劇的な情熱の発散です)の場の提供にあると言うまでもありませんが、人々は、そういう祭りに参加し、それが終わると、再び日常生活へと戻っていったのです。演劇というものの根底にあったものも、結局は、それと同じで演劇は、娯楽であると共に、その社会的機能を果たす役割を持ったものでもあったのです。それに比べ、現在の東京で行なわれている演劇とは、一体、何なのでしょう。というのは、今日の日本で、演劇らしい演劇と呼ばれているものは、東京にしかないと言われ、また、そう思われているからこそ、こう言うのですが、その多くは、単なる展示物でしかありません。というより、そうでしかあり得ないのです。勿論、これは技術水準のことなど申しているのではありません。地域共同社会を失ってしまった巨大都市東京では、結びつこうにも相手がいない、その意味で東京の演劇は孤独なのです。勿論、地域社会の崩壊は、他の多くの都市でも共通した悩みでしようが、その、再建の可能性を考えると、人ロが極端に多く、面積的にも広い巨大都市東京では、それは、ことさらに困難に思えます。にもかかわらず、東京は、演劇についても、日本の最大の市場で、その展示場に飾られている演劇は増大する人口を前に、客を求めて競い合う。自らが、実は、本質的に孤独であることに気付いていない展示物同士のそうした競い合いは、ただ虚しく熾烈になって行くばかりなのです。もうお分りいただけたかと思いますが、古来からの演劇の在り方というものの再生への期待をこめて、欧米で使用されている「リージョナル・シアター」という言葉、それがその本質において指し示しているものは、実は、この国にも、かつて存在していたものです。それで、私は、冒頭で、再発見の試みというべきだったか、と申し上げたのでした。したがって、また、この国における、その現代的再生を願えばこそ、「地域演劇」という言葉を、その無味乾燥を承知の上で、単なる訳語以上の意味を持つものとして、こうして使用しているというわけなのです。

ところで、その「地域演劇」が、アメリカでは、現在、直接的には、どんなことを目的に、そして、どんな規模で行なわれているのか、ここで、その概観だけでも御紹介しておきましょう。アメリカの「地域演劇」その「劇場」、あるいは「劇団」は、原則的に、プロフェッショナルによるものですが、それが目指しているのは―――それには、勿論、いろいろあるのですが、ごく平均的に言えば、自ら属する地域共同社会の住民に対して、いわゆる商業演劇では、なかなか実現されることの無かったレパートリー方式によって、欧米演劇伝統の古典から近代、さらに、前衛を含む現代の劇に至るまで、その、様々な傑作の上演を提供することで、演劇による、この世界と人生について色とりどりのヴィジョンを繰り広げようということにあります。

そして、その様な活動を可能にする基盤の整備として演劇専用の、それに入用なあらゆるワークショップを備えた工房としての劇場の建設。演技者のアンサンブルの結成。優れたマネージ能力を持つ事務局の設置を実現します。そして、それらを駆使することで、上演活動のみならず、俳優、演出家、また、演技各部門にわたるデザイナーや技術者の養成、殊に、劇作家の養成にカを注ぎ、それによって、その地域に独自である素材の劇化をふくめた、多様な現代戯曲の誕生をうながすのです。(この二十年来、トニー賞や、ニューヨーク劇評家賞、さらにはピュリッツァ賞などの戯曲部門の多くが地域の生んだ作品に与えられてきたという事実で、その成果の程がわかります。)

更に、これらの事業の実現を可能にするためには、当然、経済的基盤を固めることが必要となります。それは、第一に、入場券の販売にあり、その主体は、公演ごとの窓口売りというより、年間会員として一年分の入場料を前納することで、劇場・劇団の演劇活動に、経済的にも寄与してくれる年間予約会員によっています。第二に、補助金や寄付金で、それは、国、州、郡、市、財団、企業、市民の有志などによるものです。そして、更に、こういった、外部からの援助が、税務上、行ない易いように、地域の劇場・劇団のほとんどは、いわゆる非営利文化団体という税法上の資格を与えられています。いろいろ申し上げましたけれど、例えば、劇団というものが、原則的に自前の劇場を持っているものだという一事をとっても、アメリカにおけるこの種の演劇活動の規模の大きさは想像していただけると思いますが、これは、その地域社会が、そこに住む人々が、演劇を自分達の生活の必需品として見ているからこそ可能となったのでしょう。この様なことが成り立つ状況は、目下の日本では考えられませんが、演劇人である吾々、あるいは、心ある市民は、それをあきらめてはならないのではないでしょうか。なぜなら、孤独なる演劇をなんとかしなければならないのは、単に演劇人だけの問題ではなく、社会そのもののものでもあるからです。

このお話の冒頭で、私は、「アメリカ諸都市における地域演劇活動から学んだことを梃子として」、日本の諸都市の地域演劇の可能性を探って行きたい、と述ベました。ところが、今、私が極く簡単に御紹介したアメリカにおける地域演劇活動の現状に照らして、日本の地域演劇の在り方を考えると申しましても、畢境、それは、仮説のごときものたらぎるを得ないのは明白です。にもかかわらず、私は、その仮説をたててはくずす。時には、そうしてたてた仮説を、私自身、それはもう、一種の誇大妄想ではないかと思うこともあるのですが、しかし、たとえそれが、大風呂敷であっても、やはり、未来に対して、一つのヴィジョンを持つということは、重要なことだ思って、よく、この事を考えるのです。

そこで、最後に、私の持っているヴィジョン、というより、妄想に近いものかも知れませんが、―――その架空のプランのほんの一部、しかし、それは、日本の演劇の真の近代化にとって、非常に重要なことだと私が思っていることについて言及をしておきたいと思います。まず、アメリカの例として、今、挙げました様なこと―――今日風に言えば、そのハードとソフトということになりましょうが―――それらを実現するとなれば、そのための費用は、現在の日本の現代劇を辛うじて支えている経済的基盤の小ささと比べると、誇張でなく、天文学的な数字であって、それこそが、私の仮説を立てようとする意欲を挫く一つの原因でもありますが、かりに、それを、それがいかに天文学的とは言え、たかが金ではないか、と、あえて、調達され得るものと仮定して、さらに、その前提となる、あるいは、時によっては、その後に横たわっている課題というものがどのようなものかを考えてみることにいたしましょう。

と、それは、結局、いかなる演劇を地域住民に、いかに供給するのかという問題に行き当たります。そして、その問題は、具体的には、どのような演目を、どのように上演するのかという問題であり、最終的には、それは、どのような戯曲が、どのような演技によって上演されるべきなのか、ということに到達いたします。先ほど、アメリカの地域演劇の例で、私は、演目についてこう御紹介いたしました―――@「いわゆる商業演劇では、なかなか実現されることのなかったレパートリー方式によって」、A「欧米演劇伝統の古典から近代、そして前衛をも含む現代の劇に至るまで、そのさまぎまな傑作の上演を提供することで、演劇による、この世界と人生についての色とりどりのヴィジョンを地域住民の目前に繰り広げるということにあります」、と。
@の中の「レパートリー方式によって」という言葉は、いくつかの意味を持っているのですが、その一部分―――つまり、一週間の内に、いわば、日替わりメニューのようにして、その年度に予定している演目を交互に上演する、という、舞台技術とマネージ能力に大きく関係する部分についてだけ言えば、現時点でも、それこそ、しかるべき金さえあれば、不可能なことではありません。故藤山寛美氏が、松竹新喜劇で行なったことのある、客の注文によってその日の演日を決めて上演するといったことを支えていた技術は、レパートリー方式という上演形態を支えている技術と、細部はとにかく、そう異なるものではないからです。
しかし、その様なレパートリー方式という上演形態によって上演されることになる演目の選定ということになれば、これは、必ずしも容易ではありません。もし、誰かが、芸術監督として、ある地域劇場の経営において、レパートリー方式による上演形態という舞台技術的な仕事に、その多くを頼っている部分の採用は見合わせても、「演劇伝統の古典から現代、そして、前衛を含む現代の劇に至るまでの傑作の上演を提供することで、演劇による、この世界と人生についての色とりどりのヴィジョン」を提供するという部分は選ぶことにした場合、これは、単なる舞台技術やマネージ能力だけでは、どうにもならぬ性質のものであるからです。そして、問題の核心はここにあるのです。

地域によって、多少の差はあるでしょうが、今日、只今の、この国の一定地域における住民たちの欲している演劇とは何か、ということは、さらに、それに、そもそも演劇などには、無関心の層、あるいは、反対の層の在り方をも含めて、なかなか判定しがたいことであります。この問題は、結局、このお話で私が述べて来ましたように、我々が、江戸時代以来の歌舞伎などとの有機的関係を失い、変わって、新派とか新国劇とか、あるいは、また、新喜劇とか新劇とか、そして、さらにはアングラとか、次々に新しい多くの選択肢を与えられてきてはみたものの、ついに、これといった決定的な現代劇をもつまでに至らなかったという事情によるものですが、少なくとも、今日、日本人の多くが、劇場というものを、「演劇による、この世界と人生についての色とりどりのヴィジョン」を提供する場だという風には考えていないであろう、ということだけは、確実のように思われます。例えば、より具体的に、私がある地域劇場のために、こんなレパートリー(演目)を挙げたとします。

@ 日本人にとって、文字どおり演劇的古典である歌舞伎……勿論、専門家による上演。
A 上記に準ずるものとして、能は別としても(というのは能はやはり能楽堂に任せる理由があるものですから)、時には、文楽の上演。
B 歌舞伎の大きな影響下にありながら、いわば、日本の近代劇としての第一走者で、今日、なお活動しているという意味で、勿論、これも専門家による新派劇の上演。そして、時には松竹新喜劇の上演。

勿論、以上は、年に、それぞれ一、二度の公演にとどめますが、日本の演劇というものに対して、トータルなイメージを地域住民に持ってもらうことは、当然のことであり、また、きわめて重要だという考えに基づいています。そして、以下は、肝腎の、より直接的に、あるいは根本的に、欧米の演劇伝統に学ぼうとして来た日本の近代と現代の演劇についてのものです。

C 日本の近代劇のすぐれた作品の選定とそれに基づく上演。
D 日本の現代劇(いわゆる前衛を含む)のすぐれた作品の選定とそれに基づ<上演。
E 欧米演劇の古典(これは、吾々日本人にとっては、現代劇です)から、近代、現代に至るまでの傑作の選定とその上演。

以上、まさに、誇大妄想と言われかねないような、大風呂敷的プランですが、それは、もとより、民族として、あるいは国民として、歌舞伎その他、すぐれた演劇的古典を持っているのにかかわらず、世界に普遍的な現代劇を確立し得ていないという意味での不幸をなんとか出来ないものか、と言うところから出て来ているものですが、それは、とにかく、先程も申し上げたように、このような演目に基づいた演劇、そしてそれを提供するような劇場を、今日の、日本人、地域住民が、はたして、望んでいるかどうかには、大きな疑問が残ります。私は、よく、これまた、極端な言い方かも知れませんが、今日の、日本の現代劇は、まことに多種多様ではあるものの、大まかに言って、メロドラマと呪術もどきに分類され得るなどと申しております。その点についての詳説は、この際、省きますが、今、申し上げたことは、このようなメロドラマと呪術もどきの演劇の影響下にある人々が、果たして、かような大風呂敷の方針に基づく演劇や劇場を欲するかどうか、というふうにも言える問題であります。そして、万一、このような演目についての提案が、是とされるようなことがあったとしても、それから先、それを提供する側と、それを享受する側との間には、殆ど万華鏡の花々にちかいような多彩な問題が生じて、それは、まことに、波乱の多いもとなるでしょうが、おそらく、演劇人と、観客が、文字通り、共々、そのことを乗り越えることが出来た時、つまり、このような目標において、両者の間に橋が架かったとき、日本の演劇は、近代をものにし、現代に入っていけるはずです。

以上は、先に述べた「どのような戯曲が、どのような演技によって上演されるべきなのか」ということの中の「どのような戯曲を」という部分に関したものですが、さらに、もう一つ、「どのような演技によって」の部分が残っています。これについでも、異論を承知で、極く簡単に申しておきます。たった今、今日の日本の現代劇は、メロドラマと呪術もどきに大別出来ると述ベましたが、「現在の日本の現代劇における演技」なるものを支配しているのは、それらに共通している絶叫と安易な異形描写をこととする情緒過剰のもので―――これらは、いずれも、歌舞伎や浄瑠璃、その他語り物に通底しており、日本人として、それらに、意識的、無意識的に影響を受けるのは、当然と言えば当然のことでありますが、―――決して、個性ある人間をデッサンし造型するためものではありません。その意味で、それは、情緒の描出をこととし、それを押しつけてくる「力むばかりで芸のない」ものなのです。(念のために言っておきますが、ここで、私は、演劇にとって情緒が不必要などと申しているのではありません。)
それが証拠に、今日、演劇に、今日を生きる生活者たる大人達とその生活を、メロドラマでなく写実的に描いたものは極めて少なく、それは、とりもなおさず、そういう戯曲を描く作家が非常に少なくなってしまったことにも現われていますが、これは、一方では、今日の大人達、特に男性達が、演劇に無関心であり、ましてや、大人達の生活を描いた、良い意味での、まっとうな劇の登場を望むというようなことが皆無に近かったということも関係がありましょう。あえて申し上げれば、多忙な彼らの憩いは、ゴルフ、麻雀、赤提灯、そしてかろうじて、カラオケといったところで、演劇は、女、子供のものとしてきたのですが、吹米の国々で、大人達が、自分達の演劇、特に、広い意味で、自分達を描いた写実的な演劇を持っていないところはないという事実をどう考えるのか―――日本人としては、いわゆる、近代化の問題としてどう考えるのかということと関係があるのです。

こんな風に申し上げるのは、良質な写実的演劇というものが、近代国家の、一つのメルクマール―――指標となるからで、何も、演劇ないしは戯曲、そして、演技でさえ、(それらが、真に魅力的なスタイルを持っているものならば、)すべてが写実的であれなどと申しているのではありません。そこで、更に、ここで、付け加えておきたいのは、写実ということを、今もなお、くそリアリズムなどと言って批判する人がおりますが、写実もまた、芸術上のフィクションを造形する方法であり、そして、勿論、写実的演劇を支えるのは、写実的演技でありますが、それ以上に重要なことは、写実の基礎にある、人物造形にあたってのデッサンカの問題です。そこにまで立ち入っている技術であるならば、演技上の写実カとは、あらゆる様式の戯曲の上演にあたって、最低限必要なものであって、それなしには、近代から現代の演劇は、例外中の例外の場合はとにかくとして、成り立たず、大方の観客、即ち、大人達の娯しむところにまで、決して行けることにはならないでしよう。端的に言えば、欧米で、近代や現代の劇を支えている基盤にある写実の演技を我々が学ぶということは、西洋人に歌舞伎を学べというほどに困難なことであり、写実ということの追求は、残念ながら、我々の先人達が歌舞伎に抗して、暗中模索の中で行なってきたにもかかわらず、どうやら、それぞれ、戦前戦後にわたるイデオロギー的偏向や、いわゆるアングラばやりとった逸脱の途次で、挫折してしまったようで、吾々は、依然として、この困難な仕事を成し遂げてはいないのです。

さて、そろそろ話を終わらさなければなりませんが、只今述べてきたような、戯曲や演技の問題の追求は、率直に申しまして、東京という展示場の中で孤独になっている演劇をとりかこんでいる諸状況の中では、殆ど実践不可能といってよいでしょう。おそらく、現在の東京の演劇は、善かれ悪しかれ、その、あだ花の咲き競う百花繚乱の風情が身上なので、およそ、以上、私が述べてきたような、地域と有機的に結びついた演劇というようなものを生み出す事とは無縁の世界のようです。勿論、だから、東京以外の諸都市において、それらが、簡単に生み出されるなどということを申して来たわけではありません。しかし、地方の地域社会の持っている、人間が住むのに適当な地理的サイズとか、その落ち着いた環境とか、さらには、そこに住む人々の、東京とは比べものにならないような、独自な、生活の楽しみ方とか、また、やりようによって、ゆっくり時間をかけて、研究が出来る可能性を秘めているという点とか、その他、多くの点で、地域に根ざした、真の意味でプロの水準を持った演劇活動創設の可能性が、地方都市により多くあるのは確実です。お為ごかしでなく、そこでなら、演劇の諸問題を観客と共に考え、創り上げていける可能性があるのです。

私が、今、鏡花劇場と共に行なっているのは、勿論、以上述べてきたことの、ほんの一部でしかありません。それは、多く演技と戯曲の問題で、それを、具体的に言えば、ひとつはフィクションを造形するための技術としての写実的演技とはどんなものかを、一座の人々と、ゆっくり考え、それらをとらえようとする作業であり、もう、一つは、劇作家松田章一氏との協同作業で、共々戯曲作法を学ぶことを通じて、これは、私の勝手な妄想であり、たのしみでもあるのですが、やがて、「島清、世に敗れたり」、「白梅は匂えど……」につづいて、金澤という土地に緑のある戯曲を、最低、もう一作書いていただいて、氏の手になる金澤三部作を仕上げたいということなのでもあります。しかし、この様な作業が、やがて、地域演劇の質を支えるものの根幹になって行くということが、必定であることは、縷縷述べて来ました通りで、私は、目下、こめような基礎作業をすることを楽しんでおりますが、金澤の市民の皆さん、あるいは、石川県民の皆さんに、このような活動に色々な形で参加し協力していただけることを期待しております。それが金澤の演劇を、真の演劇に近づける一つの道だからです。勿論、このような地域における文化活動は、「地域ナショナリズム」とか、「地域至上主義」などに由来しているものではありません。先ほど「レジデント」ということについて、ふれたところで、自分の属する地域にプロによる演劇活動をもてるようになったことを「誇り」とさえ思っている、ということを申しましたが、これは、例えば、ミネアポリスの「ガスリー劇場」なら「ガスリー劇場」が、その土地出身の人々だけで構成されるべきだ、などといった偏狭な考えとは無縁だということです。誇るべきことは、出来るだけ多くの演劇的才能をアメリカ全土から、時には全世界から集めることの出来る、その土地の有能な演劇制作の能力なのであって、例えば、たまたま、その集団に属している土地出身の俳優が、わずかの台詞しかしゃべらない役に配役されたといって不愉快がるようなこととは一切縁がないということです。

先日、日本のある地方都市のオーケストラで、その構成員にその土地出身の演奏家が少ないということを問題とした地方自治体の政治家がいたという話を耳にしましたが、自らの出身地で働きたいと望んでいる有能な人がいるのに何故、ということなら話は充分わかりますが、そうでなければ、そういった「地域ナショナリズム」は、折角、地域が持っているオーケストラの質を、自ら低下させるという愚を犯すことになってしまうのではないでしょうか。幸いなことに「鏡花劇場」は、創設にかかわったおひとりである田中加夫氏が書いているように、「内外の交流と新風の絶えざる導入を重視する、そんな緩やかな集団」です。これは、言うべくして、なかなかに、難しいことですが、それでも、よく、演劇の地平までを見はるかし、今なすべきことは何かをよく考えようとしている集団です。なるほど、欧米の地域劇団などに比べれば、それは、まことにまことに小さな小さな種子ほどの存在であることは言うまでもないことですが、少しづつ芽ぶきはじめています。

「鏡花劇場は」は、昭和も終わりに近い六十二年に、松田章一氏による「雛納い」を上演し、翌六十三年には、鏡花の原作を再構成した「絵がたり、滝の白糸」を上演しました。これらの活動を土台にして、やがて、五十年に亙る演劇活動を続けてきた梅村澪子さん、「島清、世に敗れたり」を書いた劇作家の松田章一氏、加うるに、金沢大学法文学部で哲人先生と渾名されていた田中加夫氏等を中心として、戦後金沢のアマチュア演劇で活躍してきたヴェテラン俳優の諸氏、そして、更に、若い人々が、その折々に、自由に参加して、「鏡花劇場」の活動が形成されて来ました。
平成二年には、梅村さんの五十年に亙る活動を記念して、松田氏による「老い語り三部作」―――「雛納い」、「酸いも甘いも」、「花石榴」等々が、劇団昴の西本裕行氏の客演を得て上演され、平成三年には、やはり松田氏の「白梅は匂えど…」が、木山事務所の大川透氏を迎えて上演されました。今年、平成四年には「白梅は匂えど…」の再演と、鏡花による「海神別荘」の上演が予定されています。

その「白梅は匂えど…」の再演の最終日、四月十一日には、北國新聞社の後援によって「地域劇団のこれから」というシンポジュウムが、文教会館ホールで、尾崎秀樹、岩波剛、田中秀機、中里郁子、吉崎隆司の各氏をパネラーとして迎えて、開催されます。
永年、「北陸新協」をはじめ、多くのアマチュア演劇を育んできたという点で、金沢は、全国有数の町です。私は、こうした、いろいろな形での刺激によって、この土地に、真の地域演劇の活動が芽くのを期待しているのです。

(これは演劇雑誌「テアトロ」平成四年四月号に掲載された「地域社会と演劇との関わり」に、加筆削除を加えたものです。)

平成四年四月十一日 シンポジウム資料 文教会館ホール

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