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演劇 この吾を魅了したもの 第1回
             演出家 荒川哲生

焼け跡のなかから

 僕が演劇を学び始めたのは、昭和二十六年の四月のことです。四十七年前、その前年の六月に朝鮮戦争が始まっていて、国連軍の最高司令官だったマッカーサー将軍が、大統領のトルーマンに罷免されたのが、この四月でした。三月には共産党が四全協で武力革命方針を決定、七月には、政府は財閥解体完了を発表しています。当時の東京は、米軍の空襲による焼け跡に、バラックが建つというようなことがあっても、火事場の印象は、いたるところまだ歴然といった状態でした。最近、「光は新宿より」という本が出ましたけれど、あれに出て来る新宿駅東口の駅前広場なんかも、さしあたり雨露をしのげればといったバラック製の飲食街で、怪しげな安焼酎がグラス一杯四、五十円、中には、こっちが持っている小残の分だけのカレーライスを作ってくれるおやじさんのやってる食堂なんてのもあった時代です。

僕が入ったのは、文学座という劇団が、その年創設した「舞台技術研究室」という、舞台装置、照明、音響効果、衣装、舞台監督(演出家ではなく、舞台を作るのに必要なあらゆる"仕込み"と、本番の進行を司る役割です)などを学ぶための養成機関でした。文学座は、信濃町にあって、あそこから、四谷三丁目、大木戸と歩いて、新宿まで約十五分の距離でした。文学座での勉強というか労働というか、それが終わると新宿へ繰り出すんですね。「芝居の話」をするんです。まるで日課みたいに。といって、みんな見事に貧乏で金はないのですが、その時その時、たまたま誰かが持ってる金をあてにして、安焼酎で演劇を語るわけです。

演劇のことなど、まだ碌すっぽ知りもしないのに、お互い、揉んで揉まれて、夢中になって、演劇はこれでいいのかなんて悲憤慷慨している。まあ、激動の時代でしたからね。言葉の価値も、まだ、今ほどにはすり減っていなかったから、この「激動」にはそれなりのリアリティがあった。経済的には、もう笑っちゃうくらい貧しかったけれど、なんか夢中でした。一般的に言って、食うために一心不乱で吾を忘れずにいることが困難な時代でしたけれど、そういう時代の中の
無我夢中の青春といった風でした。

僕は、東京でよく「川向う」といわれる向島、その寺島というところで生まれました。つい先日、瀧田ゆうさんの劇画「寺島町綺譚」をテレビ化したものをNHKが再放送していましたけれど、あの寺島町です。つまり、あのテレビの舞台である玉の井のすぐ近くです。当時は、まだ、そこの生家に住んでいて、深夜の新宿から最終の山手線で、鶯谷までたどりつき、あとは徒歩で四、五十分かけて帰宅していました。言問通り、これは在原業平さんの歌にちなんで、そう名づけられた通りですが、それを、入谷、あの「恐れ入谷の鬼子母神」の入谷ですが、そこを通り、浅草を、観音様の裏手と江戸時代芝居のあった猿若町の間で抜けて、言問橋で隅田川を渡り、公園を川沿いに通り抜けて家に帰るんです。その頃、よくその橋の上で佇んで、川風に当たりながら川面を見詰めて「俺は一体何をしてるんだろう」と考えることがありました。新宿で気炎を上げて小一時間した頃ということになりますが、なんか志ん生の落語「明鳥」の若旦那みたいですね。あの男、吉原で女に夢中になって親に勘当されて、言問の橋の上から飛び込もうとするでしょ。まあ、僕の場合は、相手は女じゃなくて芝居でしたけれど。

ところで、なんでそんな事を考えたのかということですけれど、少し長くなりますが、それをお話しいたしましょう。下町に生まれ育った僕には、新劇っていうのは、妙な言い方だけど、山の手の演劇だったんですね。当時、新劇をやっている連中で下町に住んでいる奴なんてほとんどいなかった。地方出身でも、そういうのはまずいない。文学座は、よく、新劇団には珍しい下町的なもののある劇団、つまり下町的な和気藹々に満ちている劇団と言われていましたけれど、下町住まいなんて一人もいない。しかし、これにはもっと本質的な理由があるんです。

 

「山の手の演劇」に拒絶反応 

これは、あとでも触れますが、僕は、文学座で演劇人門を果たす時もその後も、よく不思議がられたんですが、入門以前に、新劇はおろか、芝居と呼ばれているものを唯一の例外を除いては観たこともなかったんですね。僕の芸能についてのそれまでの経験と言えば、浅草六区の劇場だけ。子供の頃から、浅早の芸能の匂いは、まあ、あの近辺の下町の子供なら誰でも嗅ぐぐらいには嗅いでいました。僕の場合、父が路地の奥まったところで小さな町工場を経営していたので、住みこみで働いていた若い工員さんやら女子工員さんやらに連れられて行ったのが最初だつたと思いますが、エノケンだシミキンだ、花屋敷だ、SKD(松竹少女歌劇団)だ、なんだかんだと、それがまあ芸能的原体験だったんですね。

そして、子供ながら、そこで受けとったのは、あの劇場というものの中での、観客と舞台との間に強烈に存在していた一体感みたいなものですね。芸人や踊子達と観客との間にある一体感。ところが文学座に入門してから、もちろん毎日のように観るようになった新劇は違うんです。勿論、踊りと演劇は違います。歌舞に簡単なストーリーを織りこんだもの、あるいは逆に簡単な芝居めいたストーリーに歌舞を織りこみ、ギャグで色あげしたようなものと演劇とは違う。
早い話、新劇には、人生とか、世界とか、性格だとか、心理だとかなんだかんだと浅草の芸能とは非常に異なるものが一杯につまっている。しかし、新劇も、芸能には違いないのです。学校の講義ではない。つまり、新劇というか演劇も、それが扱っている内容や形式を通じて、舞台と客との一体感を生み出させるようでなければ、なんで、大変な手間ひまかけて舞台化なんぞ試みるのかというわけです。僕が、最初に、新劇は山の手の演劇ではないのか、という印象
を持ったのは、別に山の手のせいではないのです。ただ、ごく通俗的に言えば、そういう一体感を生む上での未熟さ、あるいは、いかにも気取って、いわゆる知的なものが分かったふりをしている、そういう状態に対する一種の拒絶反応が僕にそんな言葉を思いつかせた、というわけなんです。

まあ、このように言えば、今時、演劇の当事者も、そんなことは分かってると言うでしょうが、分かっているだけでは仕方がない。また、一体感らしきものさえあれば、なんだっていいのか、ということも、よくよく考えてみなければなりません。ことに最近のように、劇と、いわゆるショーを混同して、世も人も平然としているとなると、これは何遍でも、くりかえし考えなければならない事柄ということになるのですが、これは重要なことなので、いずれ先の方でまたお話ししたいと思います。

 

ベレー帽の客に「こりゃいかん」

話を元に戻しますが、結局、なぜ私が、言問橋の上であんな風に独り言ちたかについては、心の裏に、親の反対を押し切って新劇の世界なるものに飛び込んだはいいが、新劇そのものが、芸能という仕事の果たさなければならない最も重要なことを果たさないのか果たせないのか、そういう状態にあることを知ってのことで、一体、これは、親を嘆かしてまでやる仕事かと思い悩んだのだと思います。人生と演劇のはさみ打ちに遭ったの図とでも言いましょうか。

これは、ずっと後のことですが、昭和五十七年に、山本夏彦氏が、写真コラム「やぶから棒」の中で、「新劇だいっきらい」という文章を書いていて、それを読んだ時、僕は、本当に驚きました。山本さんと全く同じ経験を、入門直後にしたことを思い出したからです。その文章の終わりにこうあります。「私は最近の新劇を知らない。知らないで難じるのもどうかと思って、参考までに俳優座を見物に行った。そしたら動物園に五十年前の白熊がいるように、そこにはベレー帽
をかぶった見物がいた。築地小劇場の昔の見物と寸分違わないのがいたので、予期したこととはいえ思わず私は顔をそむけた」。この前段を引用しないと、どういう文脈の中で、氏が、こう言ってこの文章を結んでいるのかお分かりいただけないかも知れませんが、それはそれとして、僕の経験をお話しすると、入門直後、僕にとって最初の仕事を与えられた昭和二十六年の五月公演、大岡昇平作、福田恆存脚色の「武蔵野夫人」の時のこと、三越劇場で休憩中、ロビーを通って照明室へ行こうとした時、たまたま、客の中に、ベレー帽をかぶった客の姿が目に入ったんですね。その時、僕は、「こりゃいかん」と思いました。「ここは自分のいるところじゃない」って。まあ、特にいまの若い人なら、なんでベレー帽如きでとおっしゃるかも知れませんが、これはまあ、なんというか、少々大げさに言えば、日本の近代化のある種喜劇的な側面の象徴なんです。

 

新劇は日本の近代化の標本

ほら、鹿鳴館で行われた舞踏会に出た日本の貴夫人を見て、猿がロープ・デコルテを着用して云々と言った西洋人がいたでしょう、僕は、後年、三島由紀夫さんの戯曲「鹿鳴館」の初演の舞台監督をつとめたんですが、あの時、ものすごく調べたんで、よく承知していますけれど、ベレーは、あれの矮小なやつですね。ベレーに比べりゃ鹿鳴館の方がまだはるかに堂々としている。まあ、ベレーの例も、もう古い部類のことかも知れないけど、こういうことに象徴されている奇妙さは、新劇だけでなく、現在の日本にだっていくらでもあるし、全然解決していやしない。一体、近代化をどうするのか。本質的には全く腰が定まっていないんですね。便利な時に近代化をかざし、便利な時に否定する。まあ、この二十年、お金が出来たので、欧米も日本に一目おく。それで、いかにも近代化なんぞはクリアーしてしまったかの如く既成事実を積み上げて行く。ところがバブルがはじけると、なんぞ知らん、目前に、グローバル・スタンダードなんていう欧米近代のお化けがいる。あわてふためくってわけです。

近頃、新劇というのは、もはや死語だという人もいて、それはある意味で大変結構なんですが、新劇には、この国のいわゆる近代化の標本みたいなところがあるんですね。中途半端の象徴として。これも、いずれ、ゆっくりお話ししたいことだけれど、例えば、英国辺りでは、すでに十八世紀に演劇界でこんなことが起きているんです。十八世紀に入るとロンドンでは音楽劇−いうまでもなくせりふと歌で進行する軽いコメディですね。それからレビュー−これは、日本でかつて使われていたのとは少々違うんですが、歌踊入り社会風刺寸劇集みたいなもの、あるいはまたどたばた喜劇のようなものが、猛烈にはやるんです。それに危機感をあおられたのがいわゆるドラマをやる演劇の方です。これは、音楽や歌、踊り、スペクタクルあるいはギャグなどをあてにすることのほとんどない専ら演技によるジャンルです。演技によるというのは、せりふの演奏技術によるということで、台本としては、シェイクスピアなんかその代表ですね。この両者の間に戦いが起きた。で、一七三七年に、勅許劇場というのが出来て、お上によって演劇は守られたというわけです。

 

誤解された「せりふ劇」

このお上によって、というのも、余り早とちりして受けとってはいけないので、お上が出なければいけないくらい、芸能というものが社会的だった(勿論、日本の江戸期もそうでした)という意味にとった方がいい。ということは、正確に言えばロンドンという地域社会では、近代の比較的早い時期に、演技などに基盤をおく演劇と、歌や踊りやギャグなどに頼る舞台の区別をつけたということですね。というのは、舞台で、歌にも、踊りにも、あるいは言葉、といってもせりふという
よりギャグというべき言葉に頼らないのだとすれば、あとは、せりふを中心においた演技によるしか仕方ありませんからね。そして、勿論、欧米の演劇の大道はそのドラマの方で、シェイクスピアであろうが、モリエールであろうが、イプセンだろうが、チェホフ、オスカー・ワイルド、以下、アーサー・ミラーであろうが、ウィリアムズであろうが、サルトルだろうが、ベケットだろうが、皆、基本的には、その方法で書いて来ているわけですし、演技もそれに対応したものであるのは当然です。

実は、日本では、主としてせりふに基盤をおく演劇は発達しませんでした。まあ、狂言なんかに、その可能性があったのですが、それが主流になるということはありませんでした。皆さん、あまり気づいてないことですが、能にしろ、歌舞伎にしろ、音楽や舞踊と切り離せないでしょう。日本では近世と呼んでいますけれど、日本の近代というものが育ちはじめた江戸時代が生みだした演劇、つまり歌舞伎の舞台でも、はじめから終わりまで音楽ないしは音楽的なものが鳴
り続けている。そして歌舞伎の動きの基本はいわゆる日本舞踊にあることは申すまでもありません。明治になって、他のあらゆる分野と同じように、欧米の演劇の影響下で、これが演劇の近代化というものの根幹だったのですが、日本にも音楽や舞踊に頼らないせりふを主体とした演劇を作ろうという試みが始まったのです。それで、「せりふ劇」という言葉も現れたのですが、この「せりふ劇」という言葉が、非常に誤解されることがある。                    
                                                        
数十年前に、いわゆる「アングラ演劇」なるものが盛んになりはじめた時、「演劇はせりふではない、肉体だ」といった言い方に代表される様々なスローガンみたいなものがかかげられましたが、先行の演劇の古臭さ、真実味のなさを批判するのは結構だけれど、ことばと肉体が何の縁もないと言わんばかりのこうした半可通な言い方は、今も多くの害毒を流しています。ことばも、吾々がそれを発する場合、結局は全身の筋肉を使用して行うという当たり前のことを、
それらは忘れさせてしまったのです。それらのスローガンは、「演劇はせりふじゃなく肉体だ。いや、歌も踊りもOKだ」という具合になって行き、やっと赤子から幼児ほどになりかけていた「せりふ劇」の成長にブレーキをかけてしまった。もっともそれは、一種の先祖がえりなのです。日本の演劇の伝統の中で、音楽や歌舞的要素は、必須のものだからです。この二、三十年、若い人たちの舞台が歌と踊りと絶叫まみれになっていったのには、そういう背景があるので
す。言葉などという七面倒くさいものをしゃべっていられるかというわけですね。 

こういう現状をみていると、明治以後の演劇の近代化の目標であった、「せりふ劇」の樹立は、ほとんど流産に近い結果に終わったように、私などの目には映ります。お断りしておきますけれど、私は、近代化至上主義者でもなんでもありません。近代化というものに、右顧左眄せずそれを宿命と受けとって、肩のカを抜いてそれに処して行こうとしているだけです。前近代だか近代以後だか知りませんが、そんなものは、日本人たるこの体中漲っているんですから。た
だ、言いたいのは、僕は演劇について、歌舞入りギャグ大会風のものよりは、せりふを駆使して、人間や世界を描いたものをやりたい、つくりたいと思っているのです。突然のようですが、かつてこの国の小説について二葉亭四迷が言ったように、演劇にも「人の性質を冩し一国の大勢を描」こうとするものがあるべきだと思っています。勿論これは、象徴的な言い方で、なんでもかんでもしかめっつらして天下国家を論じよ、などと言っているのではありません。

演劇なのですから、最初に言った、「一体感」というものを生み出せないのなら、昔、良く言われた言い方ですが、評論にでもまかせた方がいいわけです。しかし、それにつけても欧米の連中が、照れもせずに、演劇の大道たる、あくまで演技を中心においた「せりふ劇」を「真面目な劇」と呼んで憚らないのは、うらやましいと言えばうらやましい限りです。日本では、広く芸能で、「真面目」などと聞くと、それだけで寄りつきたくなくなるのが普通ですからね。ちょうど政治家の演説なんかを聴かねばならなくなった時のように。

 

別世界の人々に接して

さて、回り道をいたしましたが、話をベレー帽のところに戻します。まあ、ベレー帽のようなこともありましたが、一方で、そういう戸惑いを忘れさせるようなこともありました。まずは、環境の激変ということでしょうね。僕は、文学座へ入る前年に、早稲田の商学部に入学していたのですが、そして、むしろ今なら決して詰まらぬなどとは思わないでしょうが、その頃は、会計学の教科書を前にして、故なく、と言っていいでしょう、非常に鬱屈していたんです。しかし、文学座
に飛び込んで、なんの予備知識もない、ところへ、また、それだけにとも言えますが、舞台装置とか、照明とか、音響効果とか、衣装とかが、非常に目新しく映ったのです。ついこの間まで思ってもいなかった環境です。勉強しました。学校では肝心の授業には出ず、早稲田ですから演劇図書館があって、それに入りびたっていました。舞台技術研究室では、照明の仕事を選んだのですが、それが、驚くほど忙しく、まあ、舞台裏での生活と図書館の往復というわけで、その忙しさときたら並のものではありませんでした。

また、文学座という劇団は、その名の通り、少なくとも、僕達が在籍していたころは、文学者の出入りが非常に多かった。思いつくまま挙げて行けば、まずは創立者の久保田万太郎、岸田国士、岩田豊雄(獅子文六)の僕達にとっては偉大なる三先生。さっきも触れましたけれど、福田さんや大岡さん。加藤道夫、中村真一郎、飯沢匡、三島由紀夫、神西渚、鈴木力衛、矢代静一、田中千未夫、中村光夫等々の諸氏、先生。少し後になりますが、谷川俊太郎さんやら寺山修司さん。観客としての、ということになれば、まだまだ沢山いらっしやったけれど、一つには、僕達が入る直前に、岸田国士先生を中心にして、「雲の会」という文壇・劇壇を横断するような活動が始まったところだったんですね。こういう雰囲気も、鬱屈していた青年には、なにか別世界のように映りました。

別世界と言えば、役者さん達の存在。入門以前、演劇には全く無縁だった僕が間違ったように観た新劇がたった一つ、それはテネシー・ウィリアムズの「ガラスの動物園」でした。今、考えると一種因縁を感じますが、その舞台は小松出身の北村喜八さんの演出で、場所は数寄屋橋の近くにあった「ピカデリー劇場」でした。そんなわけで、役者というものを身近に見たことはありませんでしたからね。当時の文学座のベテランは杉村春子さんをはじめとして、小津安二郎さんや黒沢明さんの映画などに沢山出演なさっていたのでお顔は承知はしていましたが、生きて動いているそういう役者さんを身近に見るどころか、そういう人達の仕事を手伝うようになるなんてことも−そりゃまあ、そんな新鮮さはすぐに消えてなくなるんだけれど、新入門者にとっては実に新鮮な経験でした。やがて、演出の仕事の機会が与えられる。これも、最初思ってもいなかったことです。 

さらに、もう一つ、挙げておけば、昭和三十八年−東京オリンピックの前年で、円のレートはまだ一ドル三百六十円。たとえ金があっても、普通では替えられない時代でしたが、アメリカのフォード財団からアメリカに招かれて、一年弱、彼地で演劇の研究の機会を与えられたことなんかもそうですね。入門当初、その時は、そのことがもっている意味が分かっていなかったにしろ、本質的と言っていい問題を抱えたことは私の演劇人生に大きな影響を与えたように思います。言い換えれば、音楽の底音部のように、「劇場の中で観客と演者の間に醸し出されるべき一体感」という曲が鳴り続けていて、折にふれては、それに耳を傾けながら続けて来たし、その主題を聴くこちらの姿勢も、それに影響を受けて、新しい姿勢をとるというようなことにもなって行ったんだと思います。

この連載を機に、自分のやって来た仕事を振り返ってみることは、個人的にも意味のあることかと思いますが、やはり、それを超えるものがなければいけない。つまり、演劇に主役となってもらわなければならない。思いはただ、ごく普通の生活者である方々に、今日の日本の演劇が抱える課題を理解していただけたらという思いで、しばらくお話しをさせていただこうかと思っています。

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演劇 この吾を魅了したもの 第2回

               演出家 荒川哲生

下落した言葉の価値

「北國文筆」創刊号の原稿を書いていたころから半年が過ぎ、この間、随分いろいろなことがありました。ためしに、ここにある二冊の今週の週刊誌の目次の見出しを見ると、おどろおどろしいばかりの文字が揃っています。「怨念部屋分裂必至」、「毒物カレー」、「平成の毒婦の怖るべき過去を暴く」、「テポドンは断じて人工衛星ではない!」、「日本リースの破綻で大銀行爆死の連鎖が始まる!」、「亡国」、「日本沈没」。まあ、売らんかなの惹句だからと言ってしまえば、それまでだけれど、とにかくこんなような出来事が、次々に発生したのは事実です。外国は、と言えば、これがまた、なかなかのもので、「クリントン不倫疑惑」をはじめとして、やはり、いろいろなことが起きている。こう見てみると、なるほど、ポーやホフマンやボードレールなどに発するペシミズムやデカダンスに色彩られた十九世紀の世紀末とは多少違いはあるものの、この言葉を、ある社会の没落期に現れる病的な傾向ととるなら、こういう現象は、世紀末とよばれる資格充分と思わせるところがあります。 

しかし、僕にとって印象的だったのは、こうした出来事を生起した背景を成している天然現象の異変ですね。それはまさに季節のリズムの目覚ましいばかりの崩壊でした。シェイクスピアが、ハムレットに、「この世の関節がはずれてしまった」というせりふを言わせていますが、まるで、「自然の関節がはずれてしまった」と言いたくなるような案配でした。梅雨明けのない夏。その夏が少しも夏らしくならぬうちに秋の到来。そして、その間をぬって、全国各地を、局地的、ゲリラ的に襲った記録的な豪雨。いったい梅雨の続きなんだか秋雨のはじまりなんだか区別のつかないような奇妙きてれつな雲行きの連続でした。

シェイクスピアは、ハムレットの親友であるホレイショーという人物に、異変が起きているエシノア城を守って立つ歩哨に向かって、また、こんなことを言わせています。「シーザー暗殺のまえには、さしも栄華を誇ったローマにも、いろいろな凶兆が現れたらしい。墓はことごとく顎を開き、その亡骸を吐き出す。経惟子をまとった死人の群が、気味のわるい叫び声をあげ、不可解な言葉を撒きちらしながら、ローマの辻々をうろつきまわったという。現に、おなじような異変
の前じらせが、このところ次から次へと。そうではないか、星は焔の尾をひき、血の露をふらせ、日の光はカを失い、大海を支配する月もこの世の終りかとばかり病み蝕まれる。天地が示し合わせて、なにか不祥事の待ち伏せを、この国(デンマーク)のひとたちに告げ知らせようといしている」

さっきは触れませんでしたが、今年の異常気象に加えて、例のオゾン層の破壊や、平均気温の無気味な上昇傾向などを考え合わせると、このホレーショーの言っている天変地異とそう変わりがないような気さえしてきます。日本の劇作家もそろそろ、シェイクスピアのこんなせりふが書けなければいけなくなるんじゃありませんかね。それにしても週刊誌に限らず、マスメディアの惹句の大げさなのには参りますね。煽情的でメロドラマティックで。演劇などやって来たせいか、僕はどちらかというと大げさなのが嫌いじゃないんですが、やっぱり、程度というものがありますよ。言葉の価値の下落は、はなはだしい。それこそ底値がつかず、いずれパニックを起こすんじゃないですか。あんなものを朝に、昼に見聞きさせられていたら、みなさん、言語感覚が麻痺、摩滅しちゃうんじゃないですかね。こうなると供給する側は、もっと刺激の強いものにするんです。嘆かわしい鼬ごっこと言うべきです。

 

悲惨な事件題材にした「喜劇」

ところで、和歌山で、例の青酸カリの事件が起きて、やがて、それが、どうやら砒素によるものらしいという事が言われるようになった時、僕がすぐに連想したことがあります。。それは、「毒薬と老嬢」というアメリカのコメディです。一九四一年(昭和十六年)の八月にプロードウェイで初演の幕が上げられたので、日本がハワイを急襲した十二月には、ブロードウェイで大評判になっていた劇です。戦後、間もなく、日本でも、ケーリー・グラント主演のその映画が封切りさ
れ、また、一九五一年以来、その翻訳版も、度々上演もされ、今も、NLTという劇団が上演し続けています。

実は、この題名は、日本での題名で、原題は、「毒薬と古いレース」というのです。「毒薬」が「砒素」に相当し、「古いレース」というのは、この劇の主人公である二人の未婚の姉妹であるおばあちゃん達が、いつも着ている、古風で優雅な、イギリスのヴィクトリア朝の衣装をふちどりしているレースのことを言っていて、それは、つまり、日本の題名の中の「老譲」に相当しているというわけです。この劇は、一種、老人問題の様相を呈しているもので、今、御紹介した、こ
の、二人の上品で可愛いおばあちゃんたちは、ニューヨークのブルックリンにある、これまたヴィクトリア朝風の、瀟洒な、自分達のお屋敷の部屋を、天涯孤独の老人達に、下宿として開放していて、彼女達に言わせれば、いわば人助けのために、砒素入りワインなどを御馳走して、せっせとあの世へ送りつける日々を過ごしているのです。非常に面白い劇で、僕は大好きなのですが、機会があれば、ぜひごらんになることを、皆さんにもおすすめします。

この劇の内容は、もし、ただの現実でしたら、悲惨な事件というだけにつきるでしょうね。それが、何故、こんなに、いわば痛快といって過言ではないほどの喜劇となるのか不思議なくらいです。喜劇と言っても、この劇は、あるいは皆さん、御承知の言葉じゃないかと思うんですが、いわゆる「ブラック・コメディ」の古典といわれているものです。第二次大戦後も、各国で、客をわくわくさせるような趣向をこらし、作られて来ています。永年、僕は「棺桶シリーズ・三部作」と言っているんですが、御参考までに紹介しておきますと、まず、この、ジョゼフ・ケサリングというアメリカの劇作家の書いた「砒素と古いレース」。次が、イギリスの、ホモセクシャルの劇作家で、この劇がロンドンのウエスト・エンドで大ヒット中に、「恋人」に斬殺されて果てたジョン・オートンが書いた「薔薇と棺桶」(原題は「略奪横領の品々」)。そして最後が、日本の劇作家筒井康隆氏の傑作である「スタア」です。

 

虚構の力で真の姿を表現

これから何を申し上げたいかというと、直接には、日本の劇作家への不満です。しかし、これは、真の意味で、劇作家の役割を果たして下さるような劇作家への期待であり、また、一方で、現実に存在している劇作家諸氏に、そうはなってもらえないようにしかしてきていない演劇の製作者達(僕もその一人ですね)、そして、演劇というものを、劇場で完成させる投を担っている観客(つまり皆さん)、その両者への不満でもあるんです。ごく端的に言ってしまえば、世の
中、本当にいろんなことが起こっているのに、それを劇化する作家がほとんど目につかないってことです。特に、この毒薬による一種の大量殺人などは、聞くだにおぞましく、うんざりして、憂鬱になるような事件です。神戸での少年による事件などもそうでしたが、誤解をおそれずに言えば、何故、それを笑い飛ばせるような劇が生めないのか、ということです。何もこれらの事件を直接脚色しろなんて言ってるんじゃありませんよ。こういう時代、こういう社会を笑い飛ば
せるようなものが出てこなくちゃ嘘だ、という意味で言ってるんです。先ほど挙げた三部作の一つ一つが、まさにそういったものなんです。

江戸時代の歌舞伎の作者達は、その時、その時に、世の中で起きた事件を、いろいろ趣向をこらして次々に書いています。ここで、もう一度、シェイクスピアに登場してもらうと、ハムレットにこんなことも言わせています。これは、族役者達に向かってのせりふですが、「もともと、いや、今日でも変わりはないが、劇というものは、いわば、自然に向かって鏡をかかげ、善は善なるままに、悪は悪なるままに、その真の姿を抉り出し、時代の様相を浮かぴあがらせる…」
と。もちろん、ここで「自然に向かって」と言っている「自然」とは、人間の姿をその中に含んでの自然のことですが、「善は善なるままに、悪は悪なるままに」というのは、別に、現実そのままを平板に描く、退屈な悪い意味でのリアリズムを言っていわけじゃありませんし、そのことは、次の「真の姿を抉り出し」で分かります。つまり、それを今日風に言えば、「抉り出す」というのは、虚構のカであって、それを使って、現象の奥にある「真の姿を」表現することに他なりません。 

僕は、さっき、「笑いとばす」と言いましたが、もちろん、笑いとばすだけが劇だと言っているわけじゃありませんよ。「真の姿を抉り出す」ことにも、いろいろなテーマ、手法があるのは当然のことです。シェイクスピアは、オフィーリアの父親のポローニアスに、こんなふうに言わせています。「悲劇だろうが喜劇だろうが、おちゃのこさいさい、歴史劇、田園劇、田園劇的喜劇、歴史劇的田園劇、悲劇的歴史劇、悲喜劇的歴史劇的田園劇、その他なんでもござれ、堅くるしい古典もの、気らくな新作もの、いずれも結構」お分かりいただけるでしょうが、「時代の様相を浮かびあがらせる」にしても、いろいろな主題も様式もあるじゃないかと言ってるだけです。そして、この頃の日本では、いろいろどころか、そういうものがほとんどなくなってしまったな、と嘆いているってわけです。

 

自分のことしか書けない劇作家

先日、井上ひさし氏が編集した「演劇ってなんだろう」という座談会を集めた体裁の本の中に、僕も永年親しくしているニューヨーク在住の(彼はもう四十年も、あそこにいるのですが)演劇製作者であり、評論家の大平和登氏を囲んでの座談会がのっていて、そこで大平氏は、こんなことを言っています。

「最近、ニューヨークで見たものでおもしろかったのは、「出島」という日本を題材にしたものですね。中国系アメリカ人のピン・チョンが作った芝居ですけれど、我々にしてみれば、(引用者注=「ニューヨーク在住の日本人としては」の意味)なぜ中国人がこうしたいい芝居を、日本を題材にして作って、肝心の日本人が作れないのだろうかとガックリくるわけですよ」「中国系のピン・チョンが日本を題材に取り上げた。これはこれで大変嬉しい半面、こうした、日本に関す
る文明論的なものは、やはり、日本人にやってもらいたかった」「アメリカでは、よく見ていますと、アメリカの演劇には社会的要素が必ず出てますね。たとえば、八〇年代にドラッグが問題になれば、すぐ、それをテーマにした優れた舞台が登場してくる。いまは、エイズです・・・そういう新しい、人間に対する諸問題をつかまえるのは、アメリカ演劇の強さですね」

大平氏のおっしゃつている通りで、まあ、それはアメリカに限らず、僕が、この四十五年、ということは、ほとんど第二次大戦が終わってからということになりますが、ずっ−とその情報をフォローしてきた欧米の演劇では、それぞれの時期、時期に、地域社会に生じたいろいろな社会的な問題を、一貫して、とりあげて来ているんです。日本という狭い社会の中の、また一段と狭い新劇というムラでは、「社会」と名がつくと、決まって社会主義のことなんですね。社会主義か共産主義。他に社会なんてないみたいなことだったんです。

もちろん、主題が社会主義的であろうとなんだろうと、それが劇になっているなら、誰に文句が言えますか。すべてとは言いませんが、その多くが、劇でない場合が多かった。それがもし、言いすぎだというのなら、要するに面白くなかった、つまらなかった。だから戦後しばらく、興奮していたような時代は別として、それは、徐々に、観客の中にアレルギー反応の如きものを蓄積させていって、舞台から、社会主義が流産すると、社会一般まで、一緒に流されてしまったんです。そして、もともと、近代の日本では、そういう面が強かったんですけれど、劇作家は、何を書いても、自分のこと、芸術家としての自分のことしか書かない、いや書けない、というふうにますますなって来てしまっているんですね。まあ、僕は、そんなふうに思ってるんですが、もう一度、話を、「毒薬と老嬢」に戻します。

 

意地悪で冷酷な「喜劇」の神髄

実は、僕は、さっきあげた三部作は、三つとも、すべて上演していて、「毒薬と老嬢」こと「砒素と古いレース」も、一九七四年、ルバング島に小野田少尉が現れ、宝塚では「ベルバラ」が始まり、田中角栄さんが表舞台から退場した年に、劇団雲によって、三百人劇場で上演されました。南美江、新村礼子お二人の老姉妹、殺され損う老人に中村伸郎さん。老姉妹の甥の劇評家役に仲谷昇さん。もう一人、やはり甥のギャングの役に名古屋章さん。十年ほど前、松田章
一さんの「花石榴」で梅村澪子さんの相手役をやった西本裕行さんの、希望が丘病院事務局長役といったような配役でした。その公演の時のパンフレットに、小説「三匹の蟹」で芥川賞をお受けになった大庭みな子さんと、もうお亡くなりになりましたが、劇作家の飯沢匡さんが、文章を寄せて下さっています。それぞれ、その一部を引用させていただきますが、まず、大庭さんの「不気味な笑い」から。

「ジョゼフ・ケサリングという人の「毒薬と老嬢』という大層面白い芝居がある、ということを初めて聞いたのは亡くなられた花田清輝氏からであった。『きみ、あれは是非、読むとよい。少し頭のおかしい二人のおばあさんが、なんの罪の意識もなしに、生きていても仕方のない孤独な人たちを、次々と毒薬で安楽死させる話だ』その話は妙に心に残っていて、読みたいと思っていたのが、今度「雲」でこのお芝居を上演するにあたって、その台本を送っていただくまでその機会がなかった。読んでみると、なるほどとても面白い。面白いが、単なるどたばた喜劇ではなく、意地悪で冷酷な「喜劇」の神髄なるものを持っている。いかにも花田さんが堆奨なさるほどの作品だと思った」

「演出の荒川さんには去年の丁度今頃、私の初めて書いた『死海のりんご』という戯曲を演出していただいて、その時、花田さんが紀伊國屋ホールに観に来て下さった。帰りに、荒川さんもみんなエレベーターの中で御一緒になり、どこかでお茶でも飲みませんか、とお誘いしたのだが、丁度荒川さんはお子さんが急に高熱を出したとのお電話がお宅からあったところとかのことで、先にお帰りになった。そのとき、来年は『「毒薬と老嬢」を演ります』と荒川さんかおっしゃ
ると、花田さんは、『ああ、それは是非拝見しましょう』とおっしゃったのだったが、その花田さんはつい先ごろ亡くなられた。花田さんは沢山のことを教えていただいた方だったので、亡くなっておしまいになると、、余計生前呟いていらした言葉がなつかしく、その意味でもこのお芝居は私の心に残る件品である。花田さんと御一緒に観られなかったことが残念である。台本はケサリングの原作を脚色して、諷刺している政治家たちや、国際的な諸問題が現代的な人物や話題に変えられている。原作は一九四一年のヒットラーの頃の作品だそうである」

続いて、飯沢さんの「センスのある喜劇」を。

「私は漫画の愛好家であるが、この『毒薬と老嬢』には、そういう人間を喜ばす要素、つまり視覚的要素が沢山あるのが先づ喜ばしいのである。日本の新劇界の欠点はいくつでも挙げられるが、私など視覚派から見ると、観念ばかり先行してセンス(この中には視覚が入る)は後廻し乃至は閑却というのが従来の習慣であった。教養の中にセンスも含まれることは忘れていたのである」

「この上品と守旧の典型の如き、二婦人が飛んでもない重大犯罪を何の反省もなく、神の怖れも問題にせず、やってのけるところに大きな笑があるが、これも第二次大戦という世界史的な大量虐殺のあとだからこそ意味があるのでチャップリンのムッシュウ・ベルドウ(殺人狂時代)と同じ所から出発してる。チャップリンはいささかムキになり過ぎて、まともに抗議を出してしまったので、当時不評であったが、ケサリングは、そこは、ずるく、さり気なく漫画のタッチで神へ
の不信を表明してる。日本では戦後は戦争責任という政治問題に主点が行って、戦争の大量虐殺という神とのかかあり合いは、余り追求されなかった。ましてや、それをこのような大喜劇の形で見せる人は居なかった」

 

∃一口ツパに生きる「ファルス」の精神

御両人とも、ヒットラーに言及していらっしやる。そして、僕が、飯沢さんの文章の引用の終わりに近い部分の「日本では……大量虐殺……それをこのような大喜劇の形で見せる人は居なかった」というところに注目せざるを得ないことは、日本の劇作家に注文をつけるというかたちで、僕が話して来たことを通じ、お分かりいただけるのではないでしょうか。大庭さんの文章の中に登場する花田清輝さんは、昭和三十二年に出した「大衆のエネルギー」という本に収められている「ファルスはどこへ行ったか」という文章を、「毒薬と老嬢」からの引用で始めています。当然、それは、せりふの引用で、おばあちゃん達の甥で、新聞の劇評を仕事にしているモーティマーという青年と、その恋人のエレーンの間で交わされる会話なのですが、こんな具合に進みます。

モーティマー あっ、そうだ。今夜、君が連れてってくれと言ってた、あのミュージカルの初日、また延びたぜ。

エレーン (がっかりして)あら、本当?今夜はミュージカルだと思って楽しみにしていたのに、じや、芝居か今夜も。

モーティマー どうも、君の精神構造からは知性ってものが欠落しているようだな。

エレーン 御冗談でしょ。私がミュージカルの方がいいなと思うのは、他でもない、あなたのためを思えばこそよ。

モーティマー どういう意味だ、それ?

エレーン だって、そうじゃない、あなた。ミュージカルを観に行った時だけは、とても「人間的」におなり遊ばす。

モーティマー 人間的? 

エレーン そうよ。まじめなお芝居の時は、全然駄目。まるで革命家か哲学者みたいになってしまう。帰りは、たいてい、地下鉄。そして、あの轟音の中で、プロレタリアがどうしたのこうしたのって、お説教三昧。それが、ミュージカルに行った時の帰りは全然ちがう。タクシーを奮発してくれて、その上、おまけに、車の中で……あなた……私に迫ってくれるじゃない!

御参考までに申し上げておきますが、ニューヨークでは、予告されていた初日がのびるというのは、しょっ中というわけではないけれど、珍しいことでもありません。もちろん、切符は払い戻され、まあ、それだけ慎重なのを、客の方も、一般的には「よし」としているようなところがあるんです。面白いものを見たいわけですからね。それはそれとして、ファルスというのは、日本語では、笑劇、茶番劇、道化芝居などと訳されています。花田さんは、この文章の中で、日本の
狂言にもそれを見ていますが、こっけいとか、馬鹿馬鹿しくおかしいとか、おどけたばかふぎけといった形容を思い出して下さればいいでしょう。西洋では、古い時代から、ことに中世頃からの伝統があり、いろいろな流れがあるのですが、初期のチャップリンやマルクス兄弟のドタバタ的な映画などが良い例かと思います。花田さんは、この、「ファルスはどこへ行ったか」という文章の中で、結局、ファルスの精神から切り離された風刺の精神なんてものではなまぬるくて駄目なんだということがおっしゃりたいので、「諷刺したり、皮肉をいったり、毒舌をはいたりする前に、まず、ファルスの精神を血肉化しなければならないとおもった」と書いています。

そして、「砒素と古いレース」をめぐっては、こんなふうに書いています。「ファルスの伝統は、ケッセルリングの『毒薬と老嬢』のような作品のなかにも音高くながれている。マルクス兄弟のファルスは、物と化した登場人物をあやつっているものは本能であって、固定観念を破壊するためのかれらの自由奔放なうごきには端倪すべからざるものがあるが―――逆に、「毒薬と老嬢」では、固定観念に憑かれている登場人物が、ドン・キホーテのように、外界と断絶しながら、ひたすらおのれの観念の指示するがままに、猪突猛進するところから奇怪きわまる局面がうまれる……ファルスの精神は、いまなおヨーロッパにおいては強烈に生きつづけている。カフカの小説にしても、ベケットの芝居にしても、ファルスの精神が心棒になっている。たとえばベケットの『ゴドーを待ちながら』などは、なんと狂言の世界と似ていることであろう」あるいは少々難しかったかも知れませんが、僕が、花田さんの一文から引用させていただいたのは、すでにお話しましたように、今、日本の世の中では、喜ばしいことではないにしても、目覚ましいくらい、いろいろなことが起きつづけている。オウムや神戸の震災あたりから、ずーっと。しかし、残念ながら、それを、劇化する作家が、いないということ。「事実は小説より奇なり」という古い言い方がありますが、現実の方が、どうやら、虚構を越えてしまっているかのような時、それを、もう一度、転倒しようとすれば―――もちろん、それには、いろいろなやり方があるでしょうが、生半可な方法ではだめだ。何かもっとするどい方法が必要であろう。例えば、どんなに陰惨な現実でも、虚構を通じて、それを笑い飛ばせる方法があるはずだ。劇作家よ、出でよ。吾々当事者も観客もそれを待っている、という、ほとんど妄想に近い期待かもしれませんが、さしあたってそこまでを、和歌山の「砒素入りカレー事件」から、「砒素と古いレース」の連想を通じてお話しておきたかったというわけです。

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演劇 この吾を魅了したもの 第3回

               演出家 荒川哲生

同期で今も現役は二人だけ

東京・浅草に生まれ育った僕の目には、「新劇」といぅものが、「山の手の演劇」、いわばベレー帽愛用者のための演劇に映ったことについて前回話しました。呼びこみの声や、派手な幟などでどぎつく彩られた小屋の観客と芸人達の間にあった一体感といったものが、新劇の劇場の中にはなかったのです。                                          
                                                        
先年亡くなった北見治一さんは、昭和三十八年末まで文学座に在籍していた新劇俳優で、昭和六十二年、中央公論社から、新書「回想の文学座」を出しています。その北見さんの精魂こめた仕事が、戦後、何回かにわたって、文学座が出して来た「文学座史」です。そのなかの昭和六十二年発行の、「五十年史」によると、昭和二十六年三月、僕達が受験した文学座舞台技術研究室第一期生について以下のように記録しています。「応募二〇〇名。合格四十名。
月謝五〇〇円」。この年以後、文学座は、新しく募集を行っての俳優教育をしばらく中断するのですが、僕達が入る二年前には、演技研究生として岸田今日子さんや、かつて「ムーミン・パパ」の声を担当し、今は、テレビのコマーシャルで独特の声とお喋りの仕方で知る人ぞ知る存在の高木均さんなどが入座しています。また、僕達の前年には、同じく演技研究生として、仲谷昇、北村和夫、「刑事コロンボ」の声で人気を博した小池朝雄が入っています。僕達の場合を含めて昭和二十四年、二十五年、二十六年の三年間は、毎年、四、五十人の文学座研究生が誕生しましたが、あれから、五十年、今日なお演劇活動を続けている人は、ほんのわずかにすぎません。僕の入った年で言えば、黒澤明監督の「どですかでん」に出演した演劇集団「円」所属の三谷昇君と僕のたった二人です。

僕達の指導に当たって下さったのは、昭和十二年九月六日の文学座創立メンバーで今も文学座で活躍していらっしゃるたった一人の人、演出家の戌井市郎さんをはじめとして、河野國夫(舞台装置)、穴澤喜美男(舞台照明)、長谷川音次郎(大道具)、園田芳龍(音響効果)、座学の講師としての戸板康二(演劇評論)、「雪の降る町」の作詞家として知られる内村直也(劇作)といった先生方でした。合格した四十人のなかで、たった一人、演劇についての知識や経験がまったくなかった僕は、試験の時、試験官たる先生方を面くらわせたようでした。「何をやりたいのか分らんというのでは困るね」と言われ、「でも」と反論したのを覚えています。「全く初心者で、何も知らないからこそ教育して下さるのが、こういう養成機関の存在理由なんじゃありませんか」と。よく、アメリカあたりの大学は入るは易く、出るは難しだと言います。後年、アメリカの大学で教鞭をとった時、それを実感しましたが、おそらく僕は、無意識のうちに、「とにかく合格させてくれ。合格させれば、大いに勉強するぜ」と思っていたんだと思います。 まさか、あんな生意気な反論を試みたために、こいつ変わった奴だと思われて採用されたわけでもないでしょうが、とにかく、僕は、二百人中の四十人の中に入れていただきました。試験官のなかで、照明家の穴澤さんの名前を知っていたという本当にそれだけの理由で、僕は、「照明をえらびます」と言いました。穴澤さんは、当時、舞台照明家として、まさに第一人者と言って過言ではない方でした。僕が受験するしばらく前、木下順二さんの「夕鶴」の舞台照明で、毎日演劇賞を受賞したという記事を新聞かなんかで読んでいたので、たまたま穴澤さんの名前を憶えていたんだと思います。こうして、僕は、身分は文学座の研究生でも実際は、穴澤さん直属の一番下っ端の助手として配属され、いよいよ演劇入門を果たすことになったのです。 

 

忘れていた試験日 

実を言うと、僕は、肝心の文学座の試験日を忘れていたのです。試験は午前十時に始まるはずでした。が、その日、午後四時ごろ、僕は、新宿に映画を観に行くために、たまたま文学座の最寄りの駅、国電の信濃町駅を通ったのです。電車が止まり、駅名を告げるアナウンスを聞いた時、突然、その日が試験日であることを思い出し、一瞬の逡巡の後、ホームに降りたのです。ドアはすぐ閉まり、電車は出て行きました。あの時、もしドアが、数秒早く閉じていれば、おそらく、僕は演劇の世界とは無縁のままで終わっただろうと思います。しかし、この偶然の結果が今日の僕をあらしめているといってよいと思っています。僕の師匠になった穴澤さんは、まことに多忙でした。オペラ、バレエ、演劇ばかりでなく、歌舞伎や新派、あるいは商業演劇、児童劇など舞台芸能・芸術と呼ばれる多くの分野で仕事をなさっていました。昨日まで何も知らなかった僕は、突然、多岐にわたる諸々のジャンルの舞台裏に放り込まれたわけです。

昔、ドナルド・キーンさんの日本語学習の経験談を耳にしたことがありますが、それは、日本占領に備えて、戦時下のアメリカで行われた短期強化集中訓練、いわゆるインテンシブ・コースというやつだったそうです。僕も、演劇の勉強においてそれに似たような境遇に置かれたわけです。そして、一年ぐらい経ったころ、同期生がその間文学座の公演にしか勉強の場がなかったのに比べると、その何倍もの現場を踏む機会を得ました。そのせいか、僕は入所当時より、相当に生意気になっていました。生意気といっても、もちろん空威張りをするというようなことでは全くなくて、いろいろと理屈をいい、新劇も、そして文学座もこのままであっていいわけがない、といったことを口にするようになっていたのです。劇場の舞台裏の仕事というのは、若輩であればあるほど肉体労働の比重が高くなります。僕は、ホーム・グラウンドである文学座の舞台の時には、照明ばかりでなく、大道具や小道具、あるいは音響効果といったあらゆる分野のことを、手当たり次第やりました。小生意気になって来た僕をへこませようとして過剰な労働を強いていたという面もなかったわけではないのですが、僕は内心そうした下士官的根性の先輩を、「この野郎」と思うだけで大して気にもしていませんでした。そして本当によく働きました。収入ゼロ、五〇〇円の月謝を払いながら。

岸田國士、岩田豊雄(獅子文六)、久保田万太郎といった、文学座創立の先生方は、さし当たって遠い存在だったにしろ、僕達のような裏方の研究生は、公演の舞台裏が実習の場なので、若僧で未熟とはいえ、とにかく一つの芝居でともに働く一員に違いありません。ですから杉村春子さんをはじめ、ベテランの俳優さん方とも、予想外の早さで、お近づきになれたのでした。僕としても作家や演出家、演劇研究家である先輩方にいろいろと教わることが楽しくもあ
り、刺激的でした。加藤道夫さんや芥川比呂志さん、あるいは鳴海四郎さんといった人達です。少し年の離れた先輩方に学びながら、知らず知らずのうちに影響を受けたのです。例えぼ、加藤さんが、よくおっしゃっていたこと、「リアリズムが演劇から詩を追放してしまった」といった嘆きは、まだ、文学のことなどほとんど学んでいなかったに等しい僕などには、極めて新鮮に聞こえました。                                              

後年、この加藤さんの嘆きは、「詩を追放したというそのリアリズムを、果たして僕達は自分達のものとなし得ているのであろうか」と、ひっくり返しの形で僕のテーマともなりますが、それも、元はと言えば、加藤さんが、折に触れて僕達の前で語って下さったそういう演劇論に端を発しているのです。ほかにも、加藤周一さんの講義があったり、劇作をはじめたばかりの矢代静一さんがいたり、加藤さんの戦時中からの友人で、文学座の女優だった新田瑛子さんと結婚なさっていた中村眞一郎さんのお顔を見かけることもありました。こんなふうにして、ほとんど二十四時間労働に似た舞台の仕事と、杉村さんをはじめとするベテランの俳優に学ぶ日々の中で、数年を過ごしました。その光景はまるで第二次大戦後のヨーロッパやアメリカの演劇から吹いてくる風をいっぱいにはらんだ帆のように見えたものです。僕にとって重要だったのは、この最初の年のうちに、後年の僕の演劇人生の中で欠くことのできない存在になった人々にすべて出会ったということです。僕が演出家になるきっかけを作って下さった長岡輝子さん。ともに演劇運動を興こすことになる福田恆存さん、演劇論的にたえず激励されて来たという思いを持っている三島由紀夫さんもそうでした。また、僕が初めて、ささやかながら照明のプランニングをやった時、その仕込みを大いに評価して下さり、後年は、僕の演出家としての仕事、特に喜劇をやった時に一流の諧謔的な言辞を弄しつつ、「喜劇に閑する限り、君は僕の同志だ」といった具合に激励して下さった飯沢匡さん。僕が新劇史上、最良の女優だと尊敬している田村秋子さん。こうした先生方に、お会いできたことは、かけがえのない財産になりました。

 

下町に残る江戸の幻影

ところで、先ほど申し上げた「下町育ちと新劇との出会い」とは、僕の場合、「下町育ちと近代との出会い」ということでもありました。下町には、総じて、近代に対して、あるいは近代化というものに対して、「てやんでえ、ザキ(きぎ)な」といったところがあります。しかし、東京の下町を、江戸ことばといった方言の中に閉じこめてしまうと、日本全国津々浦々に散在している、必ずしも近代化されているとは言い切れない地域社会との共通性を無視することになります。なるほど東京の下町は、日本の近代化の発電機というかエンジンというものが据えられた場所のお膝元にある、相対的に言って伝統的な生き方をしている生活者の住んでいる区域です。その点、発電機から遠い距離にある地域とはいろいろと異なる環境におかれていることは事実でしょう。しかし、永い間に培われて来た風俗・習慣が、そう一朝一夕には変わらないという点では、全国に通ずる点があるのではないかと思います。

東京の下町論というのは、地味ではあっても延々と続いてきていて、例えば、明治三年生まれの三田村鳶魚の「江戸文庫」や明治十五年の金沢生まれで東京に出て新聞記者になった矢田挿雲の「江戸から東京へ」など数え切れぬほど沢山あります。戦後も、野田宇太郎の「文学散歩」あたりから始まり、下町の鏡でもある山の手論など含めれば、これまた枚挙にいとまがありません。下町という範囲を古典的に言えば、江戸以来の町人生活が育んできた風俗・習
慣がとにもかくにも保たれて来た地域を言っているのだと思います。

一方、山の手は、武士階級、その中心は、はじめ、三河武士あたりだったのでしょうが、幕末から維新にかけて、薩摩・長州の連中が乗りこんで来た区域です。天皇を頭に据えた中央集権国家をつくり、その舵取りに当たることになった彼等が、まずは、日本が植民地にされることを防ぐため、西洋の技術をとり入れようと、和魂洋才、あわよくば追いつけ追い越せの勢いで、西洋の風俗・習慣・言語、やがては芸術なども含めてせっせと取り入れます。山の手は、そうし
た作業を進める基盤として形成されてきた区域です。

僕の少年時代、「昭和の御代」の下町では、まだ老人の中に、江戸二百六十五年の間なじんできた徳川さんの幻影が残っていたのでしょうか、折にふれて、いまいましげに「あの芋侍めが」などと言う人が残っていました。永井荷風が、昭和十一年から十二年にかけて新聞連載した「ボク東綺譚」は関東大震災で焼け出された浅草十二階下の銘酒屋が寺島に移って来て始まった私娼街「玉の井」の女とその客である男との交渉を描いたものです。若い読者のために
説明しておくと、銘酒屋というのは、銘酒を置く飲み屋を装った売春宿のことで、明治二十年ごろ浅草に出現し、その後、全国に広がり、大正時代に最盛期を迎えたものだそうです。僕なども少年時代、大人達が、意味ありげに、「メイシャ」と言っているのを耳にして、限の医者のことではないらしく、一体なんのことだろうと思ったものでした。その「銘酒屋」が、大挙して、私の生まれ育った寺島に移って来たわけなんです。

あの作品は、古典的下町色とは一見縁がないように思えるのですが、広い意味で、そこには、失われつつある下町の色がにじみ出しているように思われるのです。昭和十一、二年といえば僕が五歳ぐらいの時で、なるほど、かつて「新劇ボーイ」だったという前田豊氏が、昭和六十一年に書いた「玉の井という街があった」の中でおっしゃっているように「荷風によって文学的に高く昇華された玉の井には、社会悪も人身売買の非道もなく、醜悪な面はことごとく切り捨てら
れ、美しいものだけが独特の詩情によって描写されている」にしても、僕にとっては少年時代の故郷を思い出すための大切なよすがとなっています。この「魔の迷路」とでも言うべき玉の井を訪ねた文学者はまことに数多く、徳田秋声や室生犀星などの名も記録されています。他にも、高村光太郎、北原白秋、尾崎士郎、舟橋聖一、太宰治、川崎長太郎、武田麟太郎、田中英光、安岡章太郎などなど、挙げていけばきりがありません。文学座の創立者のお一人である浅草生まれの久保田万太郎先生も「ボク東綺譚は特に美しく書こうとしたのではないでしょうか。あれは先生(荷風)の詩だと思います」とおっしゃっていますから、現実の玉の井というものを承知していらっしやつたに違いありません。

 

近代化に対面した下町の秀才

さて、そこで、ここから本題に入るのですが、明治の中ごろから大正にかけて、下町で育った三人の文学者に登場していただきます。それは芥川龍之介、堀辰雄、立原道造の御三方です。「風立ちぬ」などを書いた堀辰雄は、明治三十九年二歳の時から、森鴎外も住んだ向島小梅町で育ちましたが、その小梅の家を、昭和三年、室生犀星が訪ねています。下って、昭和十三年、胸を患って信州富士見高原の療養所に入院中の堀を立原道造が何回か訪れ、やがて師弟関係に入ります。その立原は、大正三年、日本橋橘町に生まれました。そこは、向島から言えば、隅田川沿いの川下の向かい側、つまり浜町に近いところで、まさに古典的下町としての歴史を持っていたところです。一方、堀は大正十二年、震災直後、犀星の紹介で、龍之介に出会い師事することになりますが、芥川は明治二十五年、京橋の入舟町で生まれ、母親の里の芥川家の養子となって、本所小泉町で育ちます。本所小泉町というのは、JR両国駅にほど近いところで、戦後、本所区と向島区が合併して現在の墨田区になりました。

そして、ここから先の話は、先程もちょっと触れましたが、僕が文学座時代にいろいろとお世話になり、後年、僕にとっては非常に有難い激励の批評を書いて下さった中村眞一郎さんにしていただこうかと思います。というのは、昭和五十五年に、中村さんが新潮選書の一冊としてお書きになった「芥川・堀・立原の文学と生――ある文学的系譜――」の中に、下町という江戸以来の風俗・習慣がいまだ色濃く残っていた地域で育った少年達が、どのようにして西洋の近代というものに対面し、どう生きて行ったのかが記されているからです。それは、時代も異なり、能力においては格段の差がある僕にとっても決して無縁ではない事柄が存在していたことは確かでした。

「さて、この三人の共通点を先ず挙げると、育った環境がいずれも東京の下町である……(中略)……そして小学校は、芥川は本所江東小学校、堀は向島牛島小学校、立原は日本橋久松小学校で、それぞれ自宅から地域の学校へ通学している(山の手の富裕な家庭の子弟が、屡々特殊な幼稚園や小学校、学習院とか暁星とか慶應幼稚舎とか、師範附属とかに、幼時から通わされて、特権的な雰囲気のなかで勉強している――たとえば永井荷風とか志賀直哉とか――とは、こうした下町の子供たちとは異なった生育をしていることは、注目されなければならない)。やがて中学校となると、この三人は早くも同じ軌跡を描きはじめる。三人とも府立三中の生徒となった。現今の両国高校であるが、戦前の府立中学はそれぞれに独特な校風を持っていて、時をへだてて、同じ中学校の門を潜ったこの三人の秀才中学生は、何か共通の雰囲気を身につけたに相違ない。そして、次は一高であり、東京帝国大学である……(中略)……こうして三人の秀才は、下町の町家の環境のなかから出て、近代的知識人への道を歩いて行った。彼等の身辺には父親をはじめとして、最高学府たる帝国大学で学んだというような人物はなく、そして家庭も山の手の子弟の場合のように、知識人としての風土にはなかった……(中略)……そうした環境から、独立した自由人として自己形成をするのは、まことに困難である。特に下町人独特の周囲への過度の思いやりと、自我確立のためのエゴイズムとを調和させることは、たとえば地方の家庭を捨てて上京し、独立した生活を営みながら作家生活に入った、自然主義系統の作家達に比べて遥かに困難であり、彼等三人の生涯の主題も生来の環境からいかに脱け出して、独立した人格を形成するか、ということであった」

同じ下町育ちとはいえ、大秀才たるこの三人に関することを引用させていただいたのは、別に僕が自分を彼等に比そうと思ってそうしているわけでりません。そもそも、僕は彼等が入学した府立三中は当然のごとく敬遠して七中に入ったくらいですから。しか中村さんが、この御三方について言われていることは、僕には、身にしみてよく分かるのです。いや、分かるよなっていったと言うべきでしょうか。中村さんは続けて、江戸期以来の下町の文化としての歌舞伎に対する、この御三人のその対し方の差について、この本の主題に沿って、こんなふうに述べています。

「たとえば歌舞伎に対しても、後年の芥川が知的に軽く揶揄することで押ししりぞけたり、堀がはじめから、それを異質のものとして感受性の上で遮断していたのに対して、立原は自己の精神の世界に対して、闘わなければならない必然的な敵であるという認識を抱いていた。……(中略)……彼自身の内部での下町文化の強制力は、絶えず自覚的に排除しつづけなければならなかった。具体的に言えば、江戸文明の生んだ洗練された歌舞伎の台詞における七五調、それは無意識に言葉を列ねようとすれば、彼の口をついて出てしまうような、生得的なものとして、彼の感受性の根本に生きていた。その口調から遁れなければ、その口調の背後にある封建的な下町文明の哲学や心理学から自由になることはできないだろう。立原は、少年の私(引用者注。中村眞一郎氏)に向かって、散歩の際に歌舞伎の台詞をすらすらと暗誦してみせて驚かせたが、その眞ぐあとでそうした古い文化から脱しなければ、新しい文学は生まれないと強調した」

 

「下町離脱」の方向性

このように語りながら、中村さんは、この三人の中に芽生えた「反下町要素」の存在と、その差について述べていらっしやるのですが、やがて、話は、「下町離脱」姿勢の徹底性の差ということに至ります。

僕が、初対面の新劇に出会ったときに、僕自身に気づかせぬまま、心の中で動いたのは、このベクトル(方向性)――つまり「下町離脱」、そして近代化へというベクトルだったのです。ただし、さしあたって僕の中のベクトルは、逆の方向を向いているように見えていました。が、一年後の僕の中のそのベクトルは、中村さんが、芥川、堀、立原という三人の文学者に、その徹底性には差こそあれ、見てとっていたベクトルと同方向を指しはじめていたのです。最初にそれを感じたのは、文学座の中に、種々の形をとりながら、時折露出することのある「下町趣味」のようなものが気に入らなくなっている自分を発見した時でした。いささか理屈っぽくなって恐縮ですが、それは、まあ、こんなことだったのではないかと思います。

演劇の近代化ということを徹底して考えようとせず、したがって、その、いわば功罪を骨身にしみて知るほどもなく、非常に表皮的なところで、たまたま、罪の方を見つけると、その罪の本質を見極めようとはしないで、日本という安全な蛸壺の中に半ば身を隠しながら、批判めく、というふうに思えてきた、ということ。言い換えれば、便利な時は利用するが、そうでない時は、素知らぬふりをするといった態度とでも言うのでしょうか。まあ、「ずるいなあ」といった思いです。
討論を徹底しようとすると「野暮」呼ばわりされ、外国の翻訳劇を利用するだけしておいて、いざとなると、やっぱりなんと言っても日本の創作劇よね、といった具合になる。そういったことの基盤にあるものが一体何なのか、ということに疑問を持ち始めたんですね。つまり「ビフテキは素晴らしいけど、やっぱり、なんたってお茶漬けよね」ということだけでは済まされないものがあるのではないか、いやそんな御大層なものなどあるものか、やっぱりそんなあたりが通り相場
なのさ、といった延々と続く自問自答が始まったのでした。

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