MATUDA
 

 
 

 

地域演劇と鏡花劇場 その一

    「島清世に敗れたりのこと」  劇作家 松田章一

 

荒川哲生のこと

 
地域の小さな劇団の盛衰を書き留めることなど、たいした意味のある事でもない。とは思うのだが、鏡花劇場にはこの十年、さま ざまな人々からの温かい支援を頂いた経緯もあり、また時々次の公演はいつかと聞かれることもある ので、劇団成立から今日までの情況を書き連ねる こともあなかち無駄ではないだろう。いま鏡花劇場は高輪真知子が懸命に支えているが、瀕死の状態である。なぜ瀕死の状能かというと、演出の荒川哲生が、昨年春、タクシーに轢かれ脳挫傷により再起不能となったからである。鏡花劇場は荒川の執念であったリージョナル・シアターを実現すべく存在していたのだが、その荒川が、病床にあって再起不能であり、荒川を継ぐものはまだ現れないからである。 しかし荒川にどんな奇跡が起こるかもしれない。高輪
が必死に鏡花劇場を守っているのは、その時のためである。私も含めて、その他は皆ボオーとしているだけで、どうしていいのか分からない、この一年であった。

 荒川は金沢の飲み屋でよくしやべった。しやべ り散らしたというべきだろう。そして、いかにも東京の下町っ子らしい喧嘩をした。からっとした喧嘩だったので、次の晩は普通に飲み始めるのだ が、またまた同じような喧嘩になった。四季を通 じての風物詩みたいな喧嘩であった。荒川の演劇歴は、一九五一(昭和二十六)年に「文学座」に入団し、一九六二(昭和三十七)年の分裂まで十一年間在簿した。しかも、文学座分 裂渦中の人物である。その間、十七作品の演出をしている。一九六三(昭和三十八)年、福田恆存や芥川比呂志らとともに現代演劇協会「雲」を作った。雲が「昂」と「円」に分裂した後も昂にあって、一九八七(昭和六十二)年まで八十二作品の演出をしている。一九九〇(平成二)年からは 金沢に居を移し、鏡花劇場で私の
作品を六本演出 した。       

 荒川には、まだ誰にも語っていない日本新劇史が詰まっていると言っていい。それをどうしても記録に残してほしかったので「北國文華」が復刊されたとき、連載をしてもらえるように荒川にも編集者にも頼んだ。それも書き始めて四回で未完のままになつている。「あの世まで持って行くのかなあ」と飲みながらときどき嘆息していたことを思い出すが、全部書ききらないうちに、それが 本当になってしまうのだろうか。元気であれば、 荒川は鏡花劇場までを書き続けるに違いないと思うのだが、今となってはその部分は私が書くしかないのだろうか。

 

鏡花劇場前史

 一九二七(昭和二)年、トルコ座以来、石川県の新劇の歴史の中で、もっとも長期間にわたって活動してきたのは北陸新協である。しかし、昭和五十年代に北陸新協は数度の分裂に見舞われ、その都度、中堅メンバーが離脱して「演劇アンサンブルかなざわ」を結成し、一九七七(昭和五十二)年にも分裂退団があり、「ドラマ工房ぴころ」が結成された。北陸新協もまた小劇団となった。そして、各劇団が少人数化したことにより、大作の上演が不可能となった。一九七七(昭和五十二)年、「金沢自立劇団連絡協議会」を発足させ、諸劇団による合同公演が企画された。当時の加入劇団は、北陸新協、 金沢放送劇団、実験劇場、演劇アンサンブルかなざわ、座・鳴呼人51である。第六回の一九八九(平成元)年まで続いた。こうした各劇団の協力態勢による合同公演時代がほぼ十年つづき、それなりの効果はあったと思われるが、台本や演出、配役などの調整に問題があったことは否めない。さらに、それぞれが離脱 した意義もまた、なおざりにされたことになる。

 一九八四(昭和五十九)年、北陸新協は創立五十周年を迎え、離脱した俳優の参加を得て、二年間にわたり四回の記念公演をし、不死鳥のように甦がえった。北陸新協五十年の歩みは決して平坦ではなかった。その思想主張において、その脚本選定において、演技において、観客動員において、経営において、それらすべてにおいて混迷と模索と反論と妥協と対立の五十年であった。だからこ そ、北陸新協五十年は石川の演劇史において貴重なのである。

 この創立五十周年を確認するかのように、一九八四(昭和五十九)年十二月、北陸新協代表であ った加須屋信政が死去した。加須屋はその生涯を 北陸新協とともに歩み、一九三五(昭和十)年以来六十六本の作品を演出した。加須屋の死が北陸新協に与えた打撃は分裂以上に大きかった。また、創立五十周年公演を最後に、劇団の重鎮として活躍した梅村澪子が離れた。その後の北陸新協は野村啓一らが中心になって立て直したが、昔日の勢いはなくなった。

 この時期から「鏡花劇場」が活動をはじめる。 梅村澪子と田中加夫が私の「雛納い」を上演、こ れが縁で、ドラマ工房ぴころの喜多文夫、高輪真知子や滋野光郎らが加わり、一九八八(昭和六十三)年に「絵がたり滝の白糸」を上演し、鏡花劇場を結成した。その後、現代演劇協会の荒川哲生を演出に迎えた。荒川哲生は、アメリカ演劇に学んだリージョナル・シアターを日本のどこかの都市で定着させたいという夢を持っていたので、金沢に居を据え、地域におけるプロデューサーシステムの公演を支援することになる。

 

福田恆存との出会い

 事の起こりは現代演劇協会の理事長、福田恆存からの手紙に始まる。一九八三(昭和五十八)年夏の事である。

 御無沙汰致しております。梅雨が明けたと思ったら、この蒸すような暑さ、御機嫌如何でいらっしゃいますか。私はようやく半月前にオイデプ ス翻訳完成、去年の暮れから半年がかりでした。その間に小林(秀雄)さんの逝去があったり、その他大兄の御存じない方が亡くなられたり、翻訳原稿も何度も手を入れ、ようやく「新潮」九月号に間に合ひました。お送りするやう手配しましたのでお買いにならぬよう、永田(恭一)さんにもその旨宜しくお伝え下さい。さてそんなわけで「コスモスの村」つい昨日手に取り、半分読ませて頂きました。あと半分読まずに、何もさう急いで御礼申し上げる要もないのですが、明三日からはオイデプスの演出にかかりますので、取り急ぎ要用のみ申上げます。お作、「変幸塾狂詩曲」まで読ませて頂きましたが、これ程巧い作品を書く素人の方に不幸にして今までぶつかりませんでした。この辺で一つ学校の先生といふ職業意識をお捨てになって一晩ものの芝居の台本、百五十枚位のものを書いて見るお気持ちになりませんか。劇団昂のために、丁度夏休みでもありますし。 私は書き始めるといつも三週間で書き終わったので気安くお願いするのですが、もちろんお書きになったものは必ず上演するとはお約束できませんけれど、「コスモスの村」読んだかぎりでは作劇術は手に入ったものです。あとは内容です。本当に書いてみたいものがきっとあるに違ひない、さう思ってこの手紙を書いております。右とにかくお考へ下さい。まだ劇団のものには、誰にも話しておりません。もしお書き下さったならそれを読んで上演の可否決定のうえ、話を持ち出さうと思っております。右唐突ながら私信の形でお願ひまで一筆。 敬具

八月三日  松田章一様梧下 福田恆存                                
                                                        
                                    
 「コスモスの村」は、私が金大附属高校の演劇部のために書いた台本を、演劇部OBがまとめて出版してくれた脚本集である。その年私は四十七歳になっていたが、かつての文学少年には衝撃的な手紙であった。今読んでもまるで恋文のような感がする。福田とは何度か面識はあったが、気難しい英文学者、劇作家、評論家という印象は拭えなかったし、会うたびにいつも緊張していた。その福田恆存からの申し出である。「三週間で書きおわる」から「気安いお願いをする」ということを納得したわけではなかったが、その時はそれでも書ける気がして、書き出したのが「斬奸」という大久保利通暗殺のテロ事件前夜の島田一郎の話であった。「石川県史」だけが資料で、「昭和五十八年十月十二日脱稿」と記し、「九週間かかった」とメモにあるか
ら、よほど三週間を意識したものであろう。三幕もので百七十枚書いた。

 しかしこれはボツになった。「君は劇団という ものを知らないから仕方がないけど、女性が出ない芝居は駄目だよ。うちは男優より女優の方が多いんだ」というのが却下理由だったが、「本当に書いてみたいもの」ではなかったからである。

 

北陸新協の「島清世に敗れたり」

 同じ頃、旧河原町の角の酒房「浮標」で、カウ ンター越しに梅村澪子が「章ちやん、北陸新協の五十周年記念になんか本を一つ書いてくれんかいね。高枚生の脚本ばっかし書いとらんと大人のも んも書いてみまっし」と誘惑したものである。梅村は北陸新協の看板女優で、一九七四(昭和四十九)年、三好十郎の「浮標」の小母さん役を演じたことを記念して、十人ばかり坐れるカウンターのある飲み屋の屋号にしていた。芝居好きの金沢の老壮年のやんちゃ者達が集まる陽気な酒房である。

 梅村に言われて頭を去来したのが島清である。島清こと島田清次郎は、大正時代の美川町出身の小説家。ベストセラーとなった「地上」を引っ提げて文壇に登場したが、成り上がり者と蔑視され、ついには精神病院で死ぬという壮絶な生涯には、かねてから興味をそそられていた。傲岸不遜の裏の小心さと劣等感を持つ男に自分を重ねて眺めていたのかもしれない。東京で一旗揚げるという田舎青年の志に反発するものがあったからかもしれない。また杉森久英が直木賞の「天才と狂人の間」を書いたとき、島清の少年時代を松任の暁鳥家に取材してきた話しを総夫人に聞かされていたからかもしれない。第一稿を書き上げたのは「昭和五十八年十月二十三日から十一月八日まで」とメモしてあるから、こちらは三週間とかかっていない。第一稿ができてから、あの人も出たい、この人も出したいということで、あわてて登場人物を増やしたりしたので、終稿を書き上げたのは十二月になっていた。北陸新協の田中一明が待っている「浮標」へ、バスで急いだ夜はひどい雪で、広小路の神明宮の前まで来たのにバスがなかなか進まずイライラしたことを覚えている。ともあれこれが「斬奸」と並行して資料を調べながら書いた作品で、「島清世に敗れたり」と題名をつけた。

 ちょうどその頃、現代演劇協会事務局長の杉本了三から電話があった。「先生、手元に作品があったら、文化庁で戯曲作品を募集しているので応募してみませんか」と薮から棒の話である。「斬奸」はボツになっていたので、北陸新協には黙って、十二月二十日、「島清世に敗れたり」を応募作品として出すことにした。

 年が明けて一九八四(昭和五十九)年二月、夜十時すぎだった。「文化庁の者ですが、あなたの応募戯曲が入賞しましたが、お受けになりますか」。寝耳に水という言葉どおりの連絡で「ただし、作品が雑誌に掲載されたり上演されたりする時、演出が制作上、作品に手を加えることがあるかも知れませんが、それをご承知頂くことが条件です」。ここからが我が人生の混乱の始まりであった。新聞発表は二月二十六日だったが、その晩、文学座の北村和夫が電話をくれた。「うちで演るぞ」。「ごめん。福田さんに義理があるので・・・」。「馬鹿もん。うちへもって来い」。重量ある声が響いたが、お断わりした。のちに「馬鹿もん」の意味が理解できたが、あの時、文学座に渡していたら、 島清よろしく故郷を捨てて東京に出ることになっ たかもしれな
い。授賞式は三月二十三日だった。現代演劇協会の多くの俳優たちが式に来てくれてうれしかったが、 北村和夫も出席して「俺が芸術選奨を貰ったときは三十万円だったのに、章ちゃんは百万円か」といいながら「松章、世に出でたり」と書いたお祝いを包んでくれたことがとりわけうれしかった。文学座と昂はまだ分裂の軋轢を引きずり、犬猿の仲であった。

 金沢の北陸新協では、創立五十周年記念第三弾の「五月」の公演を終え、六月十九日に「島清」の配役を発表した。梅村澪子、和沢昌治、喜多文夫、厚沢トモ子、滋野光郎らのベテランを配し、最初から熱気をはらんだ稽古に入った。島清は三林二三夫であった。上演は十一月八日から十日までの四ステージ。和沢昌治は「地元の書き手により、地元の人物をテーマにした作品を、地元劇団が上演することは、非常に好ましいことだ。私はこれを長年のぞんでいた」といい、鶴羽信子は「幕が下りた時、鳴り響く拍手の中に、私は一人の幻を見た。何年も思い出すことのなかった私の恩師、ドイツ文学者の伊藤武雄氏が突然私の脳裏に現われたのである。・・・伊藤氏の願ったものは、中央文化に対するアンチテーゼとしての地方文化ではなくて、中央と質的に対等でありながら、その上にこの地方の特質を加えた、香りある文化であったと、私は理解している。・・・演劇を何より愛した伊藤氏が、このような高い水準のこの地方の人々の手になる演劇を見たらどんなに喜ばれたことか」と言ってくれた。

 作者としても北陸新協の公演は、満足いく出来栄えであった。北陸新協創立五十周年記念祝賀会が公演の翌十一日に開かれ、梅村澪子は「今回の記念公演では三日間で千八百人の人に見て頂いた。ここ十数年なかったこと」と挨拶したが、石川の演劇が抱えるもう一つの問題、新劇の観客養成の必要性をあらためて認識させられた。

 

昂・円の「島清世に敗れたり」

 この文化庁舞台芸術創作奨励特別賞という長い名前の受賞作品には、上演にあたって文化庁より一千万円の助成金が出ることになっているが、島清の上演劇団は現代演劇協会昂に決定した。一九八四(昭和五十九)年七月、事務局長の杉本が、旅先のソウルから「島清、荒川哲生演出。 仲谷昇が徳田秋声の線で大方まとまりました」と書いてきた。実はそれ以前に配役について相談があったので、北村和夫や仲谷昇や内田稔を候補に挙げていた。だが三人とも分裂により劇団が違っていた。分裂した者が同じ舞台で共演することはまずないのだが、作者との長い友情からというこ とで「昂」の制作部は「文学座」の北村と「円」の仲谷に連絡を取った。文学座はたちどころに拒否し、円は承知した。

 読売新聞夕刊は「この舞台で演劇集団円の仲谷昇が徳田秋声役で客演するのが注目される。十年前、劇団雲が昴と円に別れて以来初めて一緒の舞台に立つわけで、仲谷自身の希望だが、これを機に、ニ劇団の交流を図りたいという声も出ている」と書いた。「仲谷十年ぶりに古巣に戻って客演」というニュースは、新劇では珍しい事態だったので、その後、各紙が書き立て、観客動員の助けにもなった。実のところは、この文化庁募集作品の公演はすべて新劇団協議会の主催と決まっていたので、両劇団とも協会に入っていて仲谷の出演もあまり抵抗もなく可能になったものであろう。東京の公演は、円からは仲谷と小川玲子役の黒木優美が、あとは昂で固め、島清本人かとまごうような片岡弘貴が主役を演じた。荒川のこだわりで、装置
は高田一郎により、セット一杯に組んで、幕を下ろさない二幕構成となった。

 荒川のテキスト・レジーは徹底していた。選考委員の一人茨木憲も「受賞作と決定はしたが、無条件というわけではなく、委員の聞からは、いろいろな角度からの、いろいろな意見が出されていた。しかしそれらは、上演に際して修正可能なもの」と言い、「近頃は、世界的に《演出家の 時代》などと言われて、劇作家の作品を勝手気ままに料理することが流行しているようで、そのためにあちらこちらで物議をかもしたりしているが、荒川演出の作業はそんなものではない。戯曲の内部に踏みこんで、作者の表現したかったものを端的に引き出す一方で、冗漫に流れがちな部分をいさぎよく切り捨てて、作品の緊密度を高めた」といっている。後に分かることだが、荒川の演出は、開演のその日までセリフに手を入れる性癖があった。初日を前にしての舞台稽古のとき、終幕の看護婦のセリフをどうしようかと言うのだ。事程左様に、上演のためとはいうものの驚くべき加筆であった。もっとも茨木憲の言とは違い、私のセリフをほとんど変えることなく、その間隙に見事に加筆するのだ。 

 例を一つ挙げれば、終幕で精神病院の院長が島清を慰めるセリフ「誰も来やしないよ。ここへは誰も来やしない。ここは、どこよりも安全だ。今は静かに休み給え。 君は天才でもなければ狂人で もない。ごく普通の青年だよ。今は世間が狂っている。そう、狂っているのはいつも世間だ。さあ静かに休み給え」。これが作者のセリフである。荒川は「ごく普通の青年だよ」の次に、「その正義感も野心も、愛情も冷淡も、不羈も傲慢も、その小心も誇大妄想も、すべて、二つながら普通の青年の心に眠っているものだ。君はただ、それを馬鹿正直にさらけ出して演じてしまっただけのことだ。もし狂っているというなら、それはむしろ世間の方じゃないか」と挿入した。

 文化庁との約束だから変更はご随意にと言っていたものの、いささか過剰で思い入れたっぷりのセリフだと思ったが、上演してみるとなかなかの聞かせどころで、観客も納得している。作者の意図としては「時代」を強調したかった部分だが、荒川演出では「青年そのもの」を浮かび上がらせ、今日的普遍的青年像に肉迫することになる。演出者は作者の思惑を遥かに越えた新しい世界を作っているのだ。劇評家の大笹吉雄が「舞台にいつも見えていた 病院のベッドを忘れることが出来ません。いうまでもなく、そこに演出の観点があります。時代は病んでいたのです。というよりも、病んでいるというべきでしょうか」という指摘は、演出の荒川 と装置の高田へのこの上ない理解であった。昴・円の初演は三百人劇場で、一九八五(昭和六十)年三月一日から十日まで、十ニステージの上演となった。

 ちょっと別の事件を書き入れると、この年の四月から、私が中華人民共和国上海市の復旦大学に学術教育交流と日本文学日本文化史の講学のため一年間海外出張することになっていた。この事は北陸新協の公演前に中国大使館の王效賢女史の力強い後押しによって中国側で決定したものである。この年は私には暴風が吹き荒れたようで、足も宙に浮いていて、学校にも家族にもとんだ迷惑をかけることになった。東京公演が終わり、慌ただしく準備をして上海に出発したのは三月二十八日である。 昂・ 円の石川公演は中国出張中の九月九日より始まり、高文連文化教室の公演も重なっていた。そこで上海から夏休み休暇で帰国し、観光会館での公演を一ステージだけ見て再び上海に向うという忙しない夏を過ごした。

 上海の一年間を終えて一九八六年(昭和六十一)年三月に帰国してみると、「島清」は文化庁の移動芸術祭の演目に選ばれ、六月から一ヵ月間、西日本の各都市での地方公演となっていた。湖西、碧南、笠原、野洲、有田、丸亀、松山、土佐清水、菊地、川棚、筑紫野、瀬戸田、高梁、大阪と巡って、七月に再び三百人劇場で上演のうえ、終演した。島田清次郎没後五十五年、まさに「島清世に現われたり」であった。

 さて私はかつて、昂・円公演のパンフレットで、「昔も今も依然として地方の人が東京へ出て行って、故郷に錦を飾るというような構図になっている。しかし、中央だけに文化があって、そこからしか文化が伝達されないという一方通行ではなく、地域々々に根を下ろしたものがあるべきです。その土地に住んで、そこで生きていくために必要な文化的な糧を生みだす構図にしなくてはいけないのです」と言った。

 これを受けて荒川は「地域のコミュニティに支えられたプロフェッショナルな演劇活動が、今こそ必要だと思うのです。それが、昔どこにもあった芝居小屋とその町との関係を現代的に再生させたものとして築かれて行くべきだと思いますね。それが、東京における演劇の貧困を反省させるといったようなことにもなるべきなんです。今日かろう じて行われている地方の演劇活動は、これから二十一世紀にかけて、東京の貧困な演劇の再生産に甘んじて行くべきではないと思いますね」と言っている。荒川の永年の持論であるリージョナルシアターの提言である。これが、鏡花劇場創立の底流となるのである。

(以下次号)

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地域演劇と鏡花劇場 そのニ

「絵がたり瀧の白糸」から「白梅は匂へど・・・」まで
                  劇作家 松田章一

 

鏡花劇場の設立

 昭和六十二(一九八七)年四月の金沢経済同友会創立三十周年記念式典の折に演劇公演をしたいが引受けてほしいという申し出が、経済同友会の清水忠と浅田豊久からあった。経済同友会と演劇という取り合わせは普通は考えられないところだが、そこは金沢財界人の発想のユニークさである。とにかく引き受けることにしたが、役者や演出、裏方もそろえねばならないので、一人では手に余る仕事である。こういう相談は梅村澪子しかいないので、さっそく酒房「浮標」へ出かけた。梅村はもう北陸新協を出てフリーになっていた。「あんまり大がかりに出来んねえ」という意見にしたがって、二人芝居を作ることにした。何しろ観客は経済同友会々員である。経済問題がいいのだが、戯曲のテーマとしてはなかなか難しいことであった。

 「雛納い」は、会社を定年退職する夫と妻という設定が浮かび、一人娘がアメリカ人と結婚し、孫も生まれたのにまだこだわっているサラリーマン部長とその妻が、夫が会社を勇退した春の宵、娘から老後は外国で住まないかと言われオタオタするという人生の断面を、妻が雛を仕舞い切るまでの時間で描いた一幕ものである。 梅村澪子の相手役は石田千尋に依頼した。石田は森繁の舞台にも出ていたが、この頃金沢に隠退 して寺の住職になっていた。ところ
が二月、石田がインド旅行に出かけ帰国したとたん、 脳溢血で倒れた。大いに慌てたがどうしようもない。演出を担当していた「ドラマ工房ぴころ」の田中加夫を代役にたて、演出は浦田徳久として何とか演 した。これが縁で、梅村を中心に「ドラマ工房ぴころ」の全員が加わり、「浮標」の二階で泉鏡花の作品朗読を主とした勉強会をはじめた。

 しかし舞台に立った者には朗読では満足できないという宿業があり、なんとか勉強会の成果を世に問いたいということになって、「絵がたり瀧の白糸」が企画された。さていよいよ公演しようとして、劇団の名前が無いことに気付いた。鏡花を語るのだから「鏡花劇場」がいいのじゃないかと私が提案し、輝かしい劇団名を名乗ることにしたもので、もちろん鏡花の姪である泉名月の許可を貰った。

 

「絵がたり瀧の白糸」

 「絵がたり瀧の白糸」は新派の「滝の白糸」ではなく、鏡花の原作「義血侠血」から田中加夫が構成をし、挿絵画家の西のぼるに依頼してスライ ド用のイラストを作ってもらった。加賀友禅の小紋を基調にして水芸や月や出刃包 丁のイメージを大型スクリーンにコンピューター操作で映写し、時には語り、時には所作を交えて、なかなかの意欲的な舞台となった。三十枚のイラストは「色は六色。日月火水木金土のイメージでまとめてみたが、スクリーン効果が十分に確かめられた」とは西のぼる本人の弁である。上演は昭和六十三(一九八八)年三月、石川能楽文化会館、つまり能舞台であった。田中加夫は金沢大学の哲学教授、その外、設計会社社長、洋服仕立職人、主婦、会社員、高校教諭、薬屋店主、料理屋店主などの市民が加わった。

 「鏡花劇場は金沢の生んだ文豪泉鏡花の作品を上演することを目的とした演劇サークルで、舞台歴数十年のベテランの人々に、演劇愛好の人々や家庭夫人を交えた金沢市民によって結成されている。 鏡花の金沢的雰囲気を新しい手法で表現しようとするものである。従来の舞台芸術的表現によるばかりでなく、鏡花世界にふさわしい斬新な表現法を摸索しながら、様々な実験的試みに挑戦してゆくつもりで、会場も能舞台、寺院の本堂、白壁のある中庭など、金沢市内を一つの劇場空間として利用し、市民と共に歩んでいる劇団である」と鏡花劇場設立宣言をした。

 能楽堂での上演を見ていて、ふと「第四回地域劇団東京演劇祭」が秋に東京の三百人劇場で開催されることを思い出し、楽屋から東京の現代演劇協会に電話をした。幸いに申し込み締切に間に合ったので、すぐに参加申し込みをした。ステージを終えて楽屋に戻ったとたん、次は東京公演決定となっていたわけだ。東京公演の稽古をしているうちに、その前に京都でという話になり、八月に京都下鴨のアートスペース無門館で二ステージの準備公演をした。東京公
演もそうなのだが、ノンプロが旅公演をするということは、至難の大事業である。仕事や店を休み、夫子供を置き去りにしなければならないからである。十月、東京公演は文化庁芸術祭の行事の一つと して、徳島、福井、岩手三県の劇団に先んじて三ステージの上演を行った。

 「小説の地の文を主に語り手が語っていき、会話 の部分が俳優たちによって語られ演技される。俳優たちは地味な衣裳で無対象演技である。語り手の朗読を主体に劇的な内容を俳優たち(幾役も兼ねる)が演じていく。面白い趣向とアイディアに満ちた舞台で、俳優たちの演技力も確かで見応えがある」と藤木宏幸は「テアトロ」で評した。

 その後も、平成元(一九八九)年二月には小松市の堀田能舞台で二ステージ、九月には金沢最終公演として一ステージを石川近代文学館との共催で石川文教会館ホールで上演した。「苦しかったけれども上演回数を伸ばすことに努力した。この経験はきわめて貴重であった」と田中加夫が回想しているが、より多くの人にという思いがみなぎっていたからであろうし、事実また意外な観客層にアピールしたようであった。

 

「老いがたリ 三部作」

 平成元年冬。手元に、十二月三日「梅村澪子舞台生活五十年記念公演・実行委員会結成の相談会」という一枚 の資料がある。「浮標」の二階に集まった常連が、ワイワイ騒いで「澪子ちゃん」を神輿に乗せた時のメモである。梅村が昭和十四(一九三九)年に舞台に立って以来五十年だということを誰ともな く言い出し、記念公演をしようではないかという機運が盛り上がり、「雛納い」があるのだからもう一本加えて、とか言っているうちに、酔いも伴って三部作を書くことになった。実は「雛納い」の最初の公演の稽古が進んでいるとき、金沢の古い料亭の雛飾りを梅村らと見せてもらう機会があった。その帰り道、突如として三部作にするアイデアが浮かんでいたのである。金沢に演出家がいないねえと言っているうちに、じゃ東京から呼ぼうよとなり、現代演劇協会の杉本了三に電話をしたら、荒川哲生を推薦してくれた。これが荒川と鏡花劇場の出会いである。

 演出・荒川哲生、作・松田章一「雛納い」「酸いも甘いも…」「花石榴」。いずれも二人芝居で、上演時間二時間五十分、オムニバス、三幕。 「花石榴」には昴の重鎮、西本裕行が客演。当初は梅村澪子が三幕ともに出て一人三役をこなす予定だったが「酸いも甘いも…」だけは高輪真知子に代えた。衣装の着替えやメーキャップの時間がなかったからだ。

 「花石榴」についてはこう書いたことがある。「中国残留孤児の問題は、あまりにも重くかつ複雑で、本来は取り上げるべきではないと思う。しかし、たとえば残留、たとえば孤児という言葉に、そもそもこの問題の本質的な解決に目をつむろうとする日本人の心なさを思わずにはいられない。これらの人はすでに四十歳以上であり、とても孤児ではないことは、養父養母が長く育ててくれたことからでも自明である。しかも、その迎え方は母を訪ねて三千里ふうの感傷に
すぎはしまいか。その感傷がさらにもう一度悲劇を生むのではないだろうか」花石榴のアップリケのエプロンをした我が子を、中国大陸で殺して逃げ帰った一組の夫婦の戦後の生きざま、その愛憎の果てに男と女が舞台の上で無理心中をするというモチーフで書いたものである。大陸で渡された青酸カリが何十年後でも効き目があるのだろうかという疑問はあったが、医者に聞いても「飲んだことがないからねえ」と医者らしくない返答をもらったので、まだ効能ありとして書いた。ただ舞台の上で男が女を殺そうとした毒薬を、彼自身がどのように間違えて飲んでしまうかという部分がなかなか出来ず、浮標のカウンターで幾晩もねばってトリックを考えていた。

 「酸いも甘いも…」は、幕間の間奏曲みたいに書いたもので、これは一晩で書けた記憶がある。老人ホームの老女と老人が、ホテルでちょっとした芝居をしながらシュークリーム三十個をかすめ取るという悪戯を描いた。

 「テアトロ」の編集長で劇評家の野村喬の評。「三編は明らかに変奏手法によったオムニバス作品でありながら、共通するのは初老に達した男女の老後の生きざまを考える喜劇だという点にある。「島清世に敗れたり」の保養院の閉塞生活が軍憲圧力による棄人格だったと同様に、高齢化社会がひしひしと迫る今日にあって、今まで社宅住まいをしてきた会社員の老後の不安は雛祭りのあとに納められるお雛様のようなものか、養老院で日を過ごす人々の鬱屈し
た日常からの束の間の解放とは何か、大陸残留孤児という人々を生みだした問題の責任はどう取られるべきか、という日本の棄民についてフォーカスが絞られている。…遥かな昔には姥棄山があったことを想起すれば、結局は現代版の姥棄山や棄民の装置を案出することになる点には、まだ気付いていないと言わなければならない。それをまさしく指弾した三編であろう」。「老いがたり三部作」とは、客演の西本裕行がつけたものである。関係者の多くが老境に至っていたり、その寸前だったので他人ごとでない舞台となった。

 

リージヨナル・シアター

 この公演の総経費は一千四百万円かかった。演出料や客演料、東京スタッフの宿泊策費でほぼ九百万円かかった。公演パンフレットとチラシ、チケットの印刷だけで七十万円、大道具小道具で二百万円支払った。金沢での普通の公演総経費は三百万円から多くて五百万円である。さて金集めである。まず入場料は金沢では破格の三千五百円とした。約千八百枚を売って六百三十万、名刺広告で二百七十万、だがまだ足りない。 窮状を見兼ねた現代演劇協会の杉本が紹介してく れた文化庁の「芸術文化振興基金助成交付金」五百万円を得て、どうにか五ステージを公演できた。 荒川哲生は、その様子をじっと見ていて、おもむろにアメリカのリージョナル・シアターの話を始めた。 アメリカの各都市で地域劇団がどのように運営されているか、そうした試みに金沢がどんなに適した都市であるか、ここから日本のリージョナ ル・シアターを始めよう。金沢は歌舞伎では江戸時代からの長い伝統を持つ都市ではないか。能楽の伝統もあるではないか。近年には北陸新協という新劇では前進座に次ぐ全国二番目に古い五十年の歴史を持つ劇団を維持してきた都市ではないか。つまり金沢は全国でも稀な演劇都市なのだ。四十万人の五パーセントが支持してくれれば、アメリ カ並みのリージョナル・シアターができるのだ。稽古がおわると毎晩一杯飲みながら熱っぼく語った。しかし、現実の集客カは二千人弱、0.5パーセントだった。

 

「白梅は匂へど…」

 平成二(一九九〇)年師走。ところは、相変わらず「浮標」の二階での鏡花劇場の忘年会。「綺麗な着物着て舞台に立ちたいねえ」といったのは誰だったか。金沢、着物とくれば加賀友禅となる。昭和六十(一九八五)年のことだが、上海に一年間滞在していた時、大学の図書館から借りてきた日本の女性雑誌を見ていたら、百万石茶会の特集が載っていて百花繚乱着飾った金沢夫人たちが何十人も写っていた。上海はまだまだ質素な女性たちの街だったので、と
ても金沢夫人の着物が豪者に見えたものである。それに触発されて上海の冬のつれづれに書いていた「友禅の家」を下地にして、友禅職人の一家の解体を描いた「白梅は匂へど…」が出来上がったのは翌年の春。

 今度も荒川哲生を演出に迎えることにしたのは、荒川の鏡花劇場への思い入れが普通でないことを知ったからでもある。荒川は四ヶ月にわたって徹底的に脚本をテキストレジーした。さらに稽古場では、毎日のようにセリフの加筆添加があって、役者を泣かせた。役者は鏡花劇場に集まった人々の総出演となっ たが、木山事務所の大川透の客演と金沢に帰っていたフリーの大塚奈々子を迎えた。舞台はプロ装置家の皿田圭作。中央に階段があり、下手の仕事
場の格子戸には裏丁に射す夕日や風の道にさげた風鈴が鳴ったりと、なかなかの風情である。上手は茶の間で、重厚な金沢の街屋造りの家が舞台いっぱいに作られた。さらに下手隅に「ももえ」という一杯飲屋を作 った。ママは「浮標」の梅村澪子。はじめは荷車の屋台と考えていたのだが、皿田の設計は幕間にクルリと現れる趣向の飲屋で、劇中人物の心の憂さの捨て所に設定した。

 青山兄彌はこう評した。

 「この戯曲は、端的に言えば、滅び行く金沢的なるものへの挽歌である。今の金沢は文化を売っている。その典型例が加賀友禅であり、作者が友禅職人の家に材を求めたのは、こうした意味で金沢の変節・変質を批判するのに十分効果的であったといえよう。・・・一方作者は、押し寄せる時代の波とは全く無縁の、古きよき金沢を凝縮させたような別空間たる飲み屋「ももえ」を設定し、友禅職人の家と何度も交替させる。この着想がまず第一に秀抜。舞台転換も巧妙。ここで交わされる金沢弁の、何気ない会話にあふれる情感の豊かさが素晴らしい。それにしても、暗転で「ももえ」の小さな屋台が消えるときの何というはかなさ!観客は「ももえ」の消えるたびに、確かに存在すると信じていた美しい町金沢が、もはやはかない幻影にすぎぬことを痛切に悟らされるのである」

 舞台セットもまた出演者であるということを知った貴重な経験であった。

 荒川はわずか半年の稽古で、地域の役者たちを徹底的に鍛え、プロ水準に劣らないほどに見事に育て上げた。役者たちはこれまでの金沢的な積年の「型」から脱皮した。市民の熱い視線が集まりはじめ、荒川の狙いは少しずつ実を結び始めていた。鏡花劇場も六十五歳以上の高齢者を無料招待するなど、これまでの一部の市民だけの舞台を、一般の市民にも受け入れられるように変化球を投げて布石を打った。しかし、それだけに今回も多額の出費を必要としたし、またそれ位の投資がなければ舞台らしい舞台にはならないことも分かった。主役の梅子の着る友禅は、当然加賀友禅でなければならぬ。しかも梅を描いたものというわけだからなかなか適当なものが見つからず、一枚のコスチュームに五十万円を超える高額を支払ったものだ。演出、客演者の宿泊費、舞台製作費、衣裳費などあわせる と、今回も一千万円を超す予算を組まねばならな かった。制作の鬼になって、恥も外聞もなく名刺広告を頼み歩いた。

 公演は平成三(一九九一)年七月、四ステージ。 もちろん赤字であった。多額の未払い金を返すべく、翌年、再演を試みた。この時は、シンポジウム「地域演劇のこれから」 という事業を同時開催した。パネリストは、文芸評論家の尾崎秀樹、新劇団協議会理事長の中里郁子、文化庁の田中英機の三氏と、司会の金沢青年会議所副理事長吉崎隆司。全国の地域劇団に呼び掛けたかなり大げさな事業であった。地域の小劇団が主催する全国で最初のシンポジウ
ムであった。思いは地域演劇を文化庁に認めさせようという もので、文化庁が認めるということは助成金を支出するということと考えたのだ。しかし内実はそう簡単には一致せず、五百二十万円を申請した文化庁の助成金は、翌年の春、なんとたったの五十万円の決定通知があった。つまりミイラ取りがまさにミイラになったわけだ。劇評家の岩波剛は「地域演劇という特殊な劇のないことを、地域の素材で証明した」として平成四(一九九二)年上半期のベストワンのた
めの候補に入れてくれた。鏡花劇場の実力は確実にトップレベルにアップしてきたのである。

 新劇団協議会の中里郁子は「白梅は匂ヘど…」はとてもレベルの高い芝居でした。正直いって協議会加盟劇団のなかでも玉石混淆の芝居があります。荒川さんのキメの細かい指導と演出が絶対に必要だったと思います。相当な出費があったことと思います。どうかゆったりと時間をかけていい芝居を作って下さい」と手紙をくれた。が、とても「ゆったり」というわけには行かず、前回の赤字と合わせた多額の支払いができず、夜逃げをしようかと思ったほどであった。

 演劇プロデューサーの木山潔はこう言っている。「金沢の地に演劇の拠点を作ろうとする鏡花劇場の活動は、まさに無からの出発に等しい大難事であろうかと、そのご苦労を察して余りあります。東京から、永らく文学座、劇団昂の芸術面のリー ダーであった荒川氏を招いて、しかもアマチュアで芝居を作る、何という英断だろう。すぐれた洞 察力と才腕、そして広く演劇状況への展望を兼ね揃えた、屈指の演劇人荒川氏の金沢への執着にも頭が下がります。アメリカ各地の非営利劇団の実情に詳しい荒川氏の″夢の実現″に陰ながら精一杯の声援を送りたいと思います」

 「反面、演劇プロデューサーとしての私には、その経済的な基盤、芸術的環境、もろもろの状況などを考えると頭が痛くなり逃げ出したくなります。荒川氏の演出にふれた者なら、誰でもがその精力的で根気強い創造への熱意に圧倒されます。果たしてそうした荒川氏の熱意を以てしても旨くいくものなのかという懸念が正直のところあります。誰かがやらなければならない仕事を果敢にやっている人、荒川哲生氏にとりあえず乾杯!」

 「とりあえず乾杯!」とはなんと厳しい言葉であろうか。専門家から見れば、鏡花劇場の目指すことは実に荒唐無稽、難中至難だったわけだ。もっともそれが分かるのは何年も後のことで、当時の荒川は、全身汗まみれになって鏡花劇場を日本の劇団に作り上げていた。そしてついに平成三(一九九一)年十一月、荒川は、犀川下菊橋の近くにマンションを買って、金沢に住まい始めた。やっとと言うべきか、とうとうと言うべきか、当然と言うべきか、金沢への思い入
れが本気であることを、形で示したわけである。「東京での仕事はいいんですか」と何度も言ったが、荒川はそんな心配をまったく無視し、鏡花劇場とそこに集まる劇団員に全精力を注いだ。

(文中敬称略・以下次号)

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地域演劇と鏡花劇場 その三

「海を歩いて」から「和菓子屋包匠」まで
                  劇作家 松田章一

 

「海を歩いて」のこと

現代演劇協会の事務局長杉本了三から電話があり、「沖縄をテーマにした作品で、第八回の地域劇団東京演劇祭に出てください」と、もう出ることが決まっているような申し入れがあった。平成四(一九九二)年の初夏である。しかし、金沢で沖縄を主題にした舞台となると簡単なわけにはゆかない。沖縄といえば「戦争」という固定観念が先立ち、その呪縛から逃れられない。さらに金沢を舞台にするというシバリを自らに課していたので、返事はしたものの、なかなか構想が浮かばなかった。鏡花劇場の舞台台本は、まず劇団員の人数と性別と歳格好を勘案して書き始めるのだが、我が劇団は少人数のうえ、どちらかというと年配者が多い。でも、そういう条件を考えて制作するためにいる座付作者なのだ。ある日、これはまったくの偶然であったが、井上靖の詩集で「北国」という詩を見付けた。

どうしてこんな解りきったことが
今まで思いつかなかったろう。
敗戦の祖国へ
きみにはほかにどんな帰り方もなかったのだ
――――小松市海峡の底を歩いて帰る以外。

わずか五行のこの詩には、井上靖だけではなく日本人の慟哭がある、と思った。
海底を歩きながら、いつまでも帰り着くことのできない兵士たち。その海底の軍靴の響きに耳を傾けることもなく、ひたすら蓄財と浪費に狂奔する戦後に生き残った人々。そういう骨格ができると、テーマも登場人物も物語の展開もかなり浮かんできた。
同胞殺害という重荷を背負った元日本兵の早田武輝老人と、南城駒男、京子という怪しげな不動産業者夫妻を設定したものだから、喜劇仕立てとなった。この作品のあらすじを書こうとするとかなり複雑なのだが、立松和平が簡潔にまとめてくれた。「登場人物たちはひとひねりもふたひねりもしてあって、それぞれに一筋縄ではいかない。ことに南城駒男と京子がおかしい。同じ喫茶店に偶然いた片や競馬狂いのやさぐれ中年男と、子連れのうらぶれた女サラリーマンが、グルになって沖縄のリゾートホテルを売りつけようとする。だが、そんな物件が本当に存在するかどうかはわからない。南城は沖縄戦を生きぬいた沖縄少年ということであり、主人公の早田武輝はそのことで胸を打たれたりもするのだが、それもほんとうなのかどうかわからない。南城と京子が本当に夫婦なのかどうかも曖昧である。何が真実で、何が嘘か。いや、真とか虚とかというものがあるのかないのか。裏側から見れば、真は虚であり、虚は真である。そんなことはどつちでもよい。目の前にあるのは、常に現在と戯れているあぶくのような軽さだ。これが私たちの現実である」

演出はもちろん荒川哲生だったが、ワープロで打ちあがった場面の台本を届けると、その都度セリフが太って帰ってくるのだ。戦争中は中学生だった荒川には、時代も人物も我が意を得たりの設定だったようで、つい自分の主張を書き込んでしまうのだ。あまりの加筆は、主題がぶれたり、セリフのリズムが乱れたりする。セリフの加筆では何度も喧嘩したが、作者と演出家はどっちがどっちかわからないややこしい間柄だということを、荒川との長い歳月で理解することにした。この舞台には金沢仏壇を据えた。鏡花劇場のシバリのもう一つは、地元の産業を舞台に乗せることである。また教化寺住職という役をつくり、本当の坊さんに出演を依頼した。「沖縄のリゾートホテルを、盆の読経にきた僧侶が買うことにしたという結末は、秀逸である。宗教者までが金に踊る様は、いかにも救いようがない」と立松和平は書いたが、それはともかく、さすがプロの読経で、他の役がすっかり食われてしまった。

 

どんなふうに幕を下ろすか

さて、どんな芸術ジャンルでも一緒だと思うのだが、作品が完成した姿を思い描き、そこに向けて制作を開始するものだ。私の場合は終幕が浮かぶと、全体が見えてきて筆を執り始められるのだが、「海を歩いて」は井上靖の詩で始まったので、終幕を決めないまま書き出していた。ただ、最後のセリフは早く決めていた。

武輝  あいつらは、今でも、まだ、とぼとぼ、とぼとぼ、歩いておる。歩いておる。 
     さあ、海を歩いて戻ってこい。祖国へ、母国へ、戻ってこい。海を歩いて戻ってこい。
――――
海鳴りの音
    
(静かに顔を上げて)戻らんでいい、戻らんでいい。こんな日本へは戻らんでいい。
     こんな日本へは。こんな日本へは・・・。

当然のことだが、幕切れはセリフだけで終わるのではない。あらゆる感情がドッと押し寄せて「幕」となるのだ。この時は、兵士たちの鎮魂の思いを表現したくて、浅野川の灯篭流しの場面を作った。荒川は舞台のまわりに水を回流させてそこに友禅灯篭を流したかったようだが、そんな大がかりな舞台を組めるものではない。そこで灯篭をテグス糸でひっぱったが、水に流れるようななめらかな動きにはならなかったし、作者としても灯篭流しそのものを納得できなかった。

翌平成五(一九九三)年の金沢と小松での再演では、お盆のキリコを数十個空中に浮かせることにした。荒川は東京人でキリコを知らなかった。さらに五月の再演だったので、その頃にお盆専用のキリコを売ってはいない。また海色の幕を透かせてキリコすべてに電灯を入れ、魂のゆらめきを表したかったので、それぞれに大変であった。だが、こうした困難をクリアしてゆくのが裏方の仕事で、わずか数分のために全精力を注ぎ込むのだ。おかげで費用も増してしまった。「宙に浮かぶのは、死者を迎えるキリコ。金沢では盆の墓参りに持って行く。それがさまよう魂にも、愛と欲望が渦巻く街のネオンにも見える。キリコは動かない。何かに浮かれた時代、魂はどこに落ち着くのか。東京から移り住んだ演出家荒川哲生は、北陸のごく普通の人の日常を描くことにこだわる。その熱い思いが東京偏重の時代を撃つ」と読売新聞の夕刊は書いていたが、なかなか見応えある幕切れとなった。

 

「和菓子屋包匠」のこと

平成七(一九九五)年六月、鏡花劇場は「和菓子屋包匠」を上演した。ずいぶん前のことだが『現代和菓子考』という
本が出版され、その中に金沢に饅頭を包む機械を発明した人がいたと書かれていた。林虎彦という名前まで分かっている。その後、森八の中宮社長から『包合のかたち』という林の伝記を借りることができた。業界では周知の人であった。「職人の指先が、和菓子を包むカはわずか二十グラム。当時の機械ではものをつかむカは一キログラムより小さくならなかったという。指先にこめられたこの軽やかな職人のわざを、機械が再現するということは、そもそも最初から無理だったわけである。そういう無理に、敢えて挑戦してゆく男をつき動かしていたものは何だったのだろうか。日本的で繊細な包むという型や技の手仕事を、西欧的な近代機械科学で置き換える、東西文明の融合…」とパンフレットに書いた。こうした実在の人物の青春の苦闘を舞台に乗せることは、さまざまのハードルをかかえることになる。

まずは本人の承諾である。これが最後までとれなかった。これは当然のことで、苦悩時代とはいえ金沢を夜逃げした話が第一幕のクライマックスなのだ。しかも一部上場の現役社長の話で、サクセスストーリーとはいうものの、どんなことで会社の信用に触れないとも限らない。日光街道の入口にある会社「レオン」に何度か取材に出かけて台本を作り、ほぼ舞台が出来上がったのに、なかなか社長のゴーサインが出なかった。見切り発車も覚悟した。

「公演の十日前の日曜日に、社長はこの脚本を真面目に読んでみましたところ、ちゃかしや面白おかしなとりあげかたではなく、真面目な舞台であることに気付かれ、レオンとして、この芸術活動に企業として全面協力しようと決心した次第です」とレオンの社内報は書いている。そうではあったが、いよいよ公演前日となり社長夫妻に舞台稽古を見てもらった。第一幕の夜逃げの場面ではまだ林社長は苦々しい顔つきだった。ところが終幕が下りると一転して、会場から電話をして、会社の部長以上のすべてに明日金沢へ来て観劇するようにという指示が飛んだ。翌日公演が終わって、慰労会で「金沢をとびだして以来、初めて金沢に迎えられました」との挨拶があり、作者としてはわけもなくうれしく、ほっとした。

 

舞台セットと小道具

荒川は、凝り性であった。役づくりは言うに及ばず、舞台の大道具、小道具、音響、照明、衣裳のすべてに目を光らし、決して手抜きをしなかった。「白梅は匂へど」で飲み屋モモエは、客席からカウンターの裏が見えるセットにしたため、ここに皿から鉢から酒ビンまで、今すぐにも営業できるほどに並べたものである。酒ビンにいたっては、県内の各酒造会社の銘柄を順々に日替わりで並べ、荒川は日頃の返礼としたようだ。

「和菓子屋包匠」のセットは、金沢の鰻の寝床のように長い町屋という指定をした。下手に表通りに面した部屋、中に茶の間、上手に日本間の座敷と三つの部屋のセットを作った。更に観客には見えないが、二階への階段、縁側、坪庭、台所、離れ座敷、土蔵、後通りの別棟に続く土間という設定である。こうしておかないと役者の登場の仕方が狂うのである。しかも季節が変わると小道具のすべてが冬物から夏物になる。そういうことに凝りに凝って心血を注ぐのだ。秋の虫の声にも、柱時計の動きにも、夕暮の日脚の変化にも手を抜かない。掛け軸一本にも家の風格を出さなくてはならない。特にこの家は資産家で、重文クラスの抹茶茶碗があって、これでお稽古をしたりするうえ、最後まで重要場面で活躍する茶碗なのだが、これは実物とはいかず、稽古茶碗ですませてもらった。もっとも大変だったのは、饅頭を作る機械だった。筋の展開から舞台に饅頭製造機、つまり、「包あん機」を据えねばならない。
ト書きには次のように指定した。

機械のスイッチを入れる。
機械が動く。
一同見守る。
―――

饅頭が、ぼろぼろと転がり出はじめる。

この機械は、もちろんレオンから借りた。なにしろ本物の饅頭を作らねばならないのだ。ここでも荒川は、開発途中の当時の機械でやりたいとこだわったが、もし舞台で「ぼろぼろと転がり出」なかったら失敗証明となって、失笑を買うばかりか、会社の信用にかかわる。会社は真剣で、最新の機械を使用したいという。

公演五日前になって下取りで少しは古めかしい機械がやっと金沢出張所にとどいた。しかも役者がこれを舞台で操作するのだから、会社はとても心配して、福田技術サービス部長を指導に派遣してくれた。それでも万が一の事故に備えて本番中は舞台袖に控えてもらった。もしもの時は「お−い福さん、手伝ってくれや」「ヘーい」というセリフを用意した。「福さん」は舞台衣装をつけて二倍ドキドキしながら待機したが、幸いに出番はなかった。「真っ白いま−るい饅頭が見事に出てきたときは、客席の観客も関係者も一同にどよめきと一緒に盛大な拍手が沸き起こりました」とレオンの社内報は報じた。機械が主役をつとめた芝居は他にあまり例がない、と思う。

 

「自分を写し出す鏡としての演劇」を

荒川と私のコンビは、この「和菓子屋包匠」の舞台で終わることになるだろう。
荒川はその時のパンフレットに書いている。「ほぼ十年かけて、金沢にその素材を得た舞台を四つ作った。『島清、世に敗れたり』、『海を歩いて』、『和菓子屋包匠』である。いずれも言うまでもなく松田章一の作である。彼の作品というこなら、他に一幕ものを三つ演出しているので、都合七曲の松田戯曲に関わったことになる。また更に記しておけば、昨年私はここで関与している演劇塾の塾生のために、岸田國士、中村真一郎、三島由紀夫、筒井康隆、リンダ・マーシャル等々の作家の一幕ものを演出し公開したから、これで私は計十二曲の戯曲の舞台化をここ金沢の人々と共に行ない、そして金沢の人々に観ていただいたことになる」

荒川は、日本で最初のリージョナル・シアターを金沢に作ることを夢見た。十年間、全精力と私財を投げうって金沢の土壌を耕した。心こめて種を播いた。今でこそ地域演劇が評価されているが、日本で最初に評論風ではなく体ごと本格的に取り組んだのは荒川だといっても過言ではない。だが、その夢は今は実現の見込みはない。荒川の播いた種は、荒川の水がとどこおったため、まだ芽生えない。種が播かれていることだけは確かだ。

「これは長年言い続けてきたことだが、私は世に言うファンのためだけに舞台を作ろうとは思っていない。私の念頭から、現実には決して劇場に足を運ぶことのない大多数の普通の生活者たる大人達の姿が離れたことがないからである」この観客論が、荒川演劇の基本姿勢であった。

「そもそも演劇は、単にファンのためのものではなかったのだ。それは本来、共同体としての地域社会と、その住民の生活にとってなくてはならぬ存在であった。それはいわば、空気や日光のような存在であり、この国でも少なくとも江戸時代の終わるまでは、そういうものに他ならなかったのである」

江戸時代の金沢は、京都、大阪、江戸についで歌舞伎芝居の許可が多くなされていた都市で、江戸にもない大きな劇場も持っていたし、近代劇でも昭和の初めから劇団を作っていた。だからこそ、荒川は金沢に期待したのだ。
「今ではこの国の大人達は、自らが居住する地域共同体と、そこで行なっている自分の生活を写し出す鏡としての演劇などというものは、ほとんど完全に忘れてしまっており、演劇の作り手は作り手でそれを知らぬまま、ただ自らの表現意欲の発散に、一途に心砕いているだけなのである」
「観せてやる」芝居の演劇人への忠告と、演劇に無関心な人々への切ない期待の言葉を、何度耳にしたことか。耳にタコができるというが、荒川の言葉はタコを押し分けて浸入した。荒川が通った金沢のどこの飲み屋の壁にも、この言葉がしみ込んでいるはずだ。

荒川の言う「自分の生活を写し出す鏡としての演劇」とは、鏡花劇場の場合、舞台は金沢であり、金沢の市民の生活であり、金沢弁であり、身近で、だれもが抱えている普遍的な話題であり、悩みであり、悲しみであり、喜びであり、愚かしい日常である。特別な事件や運命や宿命を背負っている人間ではなく、ごく一般の市井人が登場しなくてはならないという荒川の言葉に私も同感した。荒川の演出は、俳優が大声でわめき散らして役を誇示したり、新劇節で語ったりすることを禁じた。ごく普通の、しかも内面からにじみ出る声でなければならなかったし、大袈裟な演技ではなく、ごく日常的なシグサが求められた。「そこで行なっている自分の生活」からの演技が要求された。

座付け作者にとっても、日常生活の中に劇的展開を描き出すことは、困難な要求であったが、目を凝らして金沢を歩き回った。街の年寄を見つめ、子供を見つめ、女や男の話に耳を傾け、金沢の日々を再現するための台本を書いた。その拙い台本を荒川に渡すと、生活を映し出す「鏡」としての荒川演劇が見事に出来上がるのだ。これはなかなかスリリングな体験であった。平成九(一九九七)年、荒川は金沢市民芸術村のこけら落し公演の掉尾を飾るテネシー・ウイリアムズの「ガラスの動物園」の演出をした。これが鏡花劇場での最後の演出となつた。平成十(一九九八)年には泉鏡花戯曲大賞奨励賞のパティ・クリスティナ・ウィリス作の「幽月」の演出をした。荒川のいわゆる舞台演劇の演出はこれが多分終わりであろう。長く休演状態だった鏡花劇場の第八回公演の企画と台本の構想を話したことがある。それを聞きながら鼻先でフフンと言っていたが、無関心ではなかった。それが事故の三ヶ月前だった。事故に遇う二ヶ月前には、演劇研究会N・DARTSを発足させ、三島の近代能楽集から朗唱スタイルで三作品を上演した。その第二回公演の泉鏡花の「海禅別荘」などの稽古に入った矢先だった。

平成十二(二〇〇〇)年四月、荒川哲生は交通事故に遭い、今も意識不明のまま病院のベッドに眠っている。持てる全ての演劇理念と技法を金沢に注ぎこんだ荒川に金沢は交通事故で報いた、というのは言い過ぎだろうが、事故前に「しばらくはニューヨークヘ行くか」という言葉もあったそうだからあるいは金沢に失望していたのかもしれない。いず
れにしても我々の失ったものはあまりに大きい。

 

棄民を描いて

荒川の演劇テーマであるリージョナル・シアターの実現には、心より賛同してきたが、しかしそれは必ずしも私のテーマではなかった。かつて劇評家の野村喬が「老いがたり三部作」を評して「現代版の姥棄山や棄民の装置を案出」したと言ってくれたが、この辺が私の演劇主題のような気がする。

「白梅は匂へど」を「滅びゆく金沢的なるものへの挽歌」と青山克彌は評したが、金沢のみならず日本の都市が何かに呑み込まれ、美しいものがほとんど棄てられて行く様を描いていた。
「海を歩いて」は、命を捨てて母国を守った人々が、まるで民衆の敵のように扱われていることへの告発の舞台となった。
「和菓子屋包匠」は、成功物語ではあるが、主人公への次のようなセリフ、「あなたはよくぞここまでたった独りでやってこられましたな。師匠もなければ、つてもなし、学歴だって、こういっちゃ何だが、中学まで。そのうえ肝心の資金もなしの、ないないづくし。あなた、身を削ってここまでやっていらっしやったんだ。」このセリフを裏返せば、学術研究面でも製造過程面でも経営資金面でも、誰からも見放され、何十年も相手にされなかった男の棄民物語になっていたわけだ。書き始める時にはそういう意識はないのだが、いつの間にか筆がそちらにカーブしている。考えてみれば、現代の棄民は老人ホームにだけいるのではなく、むしろ街角にボーとして坐んでいる少年たちの場合もある。いや、日本全体が制度疲労を起こし、国際的な棄民にされているのではないかと思うことさえある。だとすれば、何かから見捨てられ、疎外された人生とその回生を描くことが、私のテーマということになる。

(文中敬称略・了)

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